みのる:俳句では白は秋の色とされます。「秋澄む」の措辞で秋晴れの日差しを反射してしろがね色に輝いているのだとわかります。そして膨れ上がるような水量の豪快さも感じるので川幅の広い洗い堰のように思います。京都の渡月橋のしたを流れる大堰川(桂川)のそれを思い浮かべました。

えいいち:皆さんがおっしゃるように段差の低い穏やかな流れに感じられます。穏やかさを感じるのは詠まれた言葉と配列そのものが川の形や大きさ色合いなどを想起させるのでしょう。言葉による一枚の絵です。しかも文末の助詞「に」の余韻により流れ動いているように感じられます。秋の澄んだ流れの先は作者のこころなのでしょう。

康子:奈々さんの「中天に満ちてしろがね寒の月」を思い出しました。このしろがねは銀色の月でしたが、掲句では川の水飛沫。春の勢いのある溢れるような川とは違い、静かに流れ透き通っている秋の川。その川を眺めていたところ、堰を落ちた水飛沫がキラキラと宝石のように舞っていた。森の中の川でしょうか、秋の澄んだ空気や川の流れる音が浮かびます。「しろがねに」の措辞に余韻が残り「静かな川がしろがねの水飛沫に変わった」ということを表現していると感じました。

澄子:下五「しろがねに」にすべてを語らせているようです。堰はそれほど落差のないものを想いました。秋日に燦めく川の流れを割と近くで見ていらしたのでしょうか。しろがねは銀のことでもありますが 至極細やかな細工でも 不思議なことに銀の放つひかりは遠くまで届きます。上五「秋澄むや」と詠嘆。いつにも増してシンプルで明快な御句のように思いました。

むべ:川沿いを散歩していて出会った景色でしょうか。卑近な例ですが、多摩川の中流域にはコンクリート製の美しい堰が数カ所設けられており、季節ごとにサギ類の捕食や鮎の遡上などが観察できます。折しも秋、水は銀色にきらめき堰を流れ落ちています。水にフォーカスしながらも「水澄む」ではなく「秋澄む」という季語をあえて選んだ意図は何でしょうか。水をしろがねに見せているのは大気や日光。水の見え方から万物がみな「澄んでいる」気づきが与えられたのではないでしょうか。清涼感漂う御句です。

かえる:身近な河川の、それほど高低差のない堰を思い浮かべました。秋澄むや、なので穏やかに冷たい秋晴れで水は荒れ狂ってはいない。穏やかに堰に水を溢して、その先で白い波を立てている様子をしろがねと称されたのかと思いました。ダムではないので、畏まってのお出掛けではなく、ご近所の河川をお散歩して得た句のような軽やかな印象です。