俳句と祈り

やまだみのる

元来ぼくは理屈こきのタイプです。

どんなことをするのにもまず関連の書物を漁り、必要な知識や理論を研究してから始めます。

すべてのクリスチャンがそうとは言わないけれど(怒られちゃう・・)、神学や聖書の解説など理論・議論を好む人も意外と多い。「聖書の真理が十分理解できないからもう少し洗礼を延ばします。」というような求道者も多い。ぼくもその類の人だった。

しかし本当に敬虔なクリスチャンは実は寡黙なのである。日ごと聖書のみことばを読んでは心静かに祈り、瞑想のうちに神さまのみ心を聴く。まだまだぼくには出来ないけれど、これが本物のクリスチャンの姿ではないだろうか。

難しい理屈抜きで聖書の福音に親しんでもらおう。敷居の低いクリスチャン・サイトを作りたい。そう思って「ゴスペル俳句の世界」というホームページを作った。なぜなら俳句は祈りと同じで理屈ではないからだ。

何度も繰り返し言っているが、俳句は頭で考えるのではなく心で感じて作るものである。実は神への祈りも同じである。

頭で美辞麗句を考えて、聴く人の耳に心地よい(祈る本人にとっても・・)祈りは本物の祈りではない。たとい表現や言葉は拙くても、神を信頼した心からの祈り・叫びは必ず神様に届くのである。

感動を写した俳句はその表現が多少拙くても鑑賞する人のこころに響きます。雑念をはらい心を無にして自然に対し、じっと祈り心に観察していると自然のほうからこちらに語りかけてくる。

なぜ空は青いのだろう、どうして雲は白いのだろう、なぜ神さまはこんな小さな昆虫を作られたんだろう、なぜこの草は枯れるんだろう、いろんな思いが湧いてくるはずである。

ふと聖書のみことばを連想して納得することもある。ふと子供のころのことやふるさとの事を思い出すこともある。将来の夢が湧いてくることもある。悲しさや苦しさを慰めてくれることもある。勇気を与えられることもある。そうしたいろんな心のひびきを言葉に置き換える。これが俳句なのである。

どうです?祈りと同じでしょう。俳句も経験を重ねれば上手に表現できるようになります。ですから表現を工夫することは「添削」でいくらでもお手伝いできるのです。でも添削者が原作者の代わりに感動すると言うことは出来ません。

だから感動を捉えていない句は添削出来ないのです。「経験が未熟だからいい俳句が出来ない・・・」それは違います。神さまが生まれながらに備えてくださっているはずの感性・感じる心を忘れてしまっているから良い俳句が出来ないのです。

祈り心を以って自然と対してみてください。自然のほうから語りかけてくるまで1時間でも2時間でも我慢してみてください。必ず良い俳句が生まれます。

正確に言えば俳句は自分で作るものではなく、自然から(神さまから)授かるものなんです。

(2000年06月17日)


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