2003年5月

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01 汝と我相寄らずとも春惜む

( なれとわれあひよらずともはるをしむ )

ひろみ:この時期、夏の季語を頭に入れなくてはと、四苦八苦している私にとってこの句は、痛いです。少なくとも、俳句を作るということをしているのだからもっと、春を、季節を楽しまなくてはと、あらためて思うのであります。汝と我の距離感、離れすぎず、近づきすぎない距離の相寄らずとも、が素敵です。言葉で言わなくても、思う心は一緒、行く春を惜しんでいる夫婦でしょうか。春惜むという季感を大切にしたいと思いました。

とろうち:ひろみさんのコメントとほぼ同じです。何も言わなくても、思っていることは同じだろう。長い年月を経て培われた、深い信頼を感じます。

こう:汝と我・・というと、私はマルチン・ブーバーの「汝と我」を思います。神と私。そうすると、相寄らずとも・・キリストの仲介あっての神と私ですから「相寄らずとも」に深い肯定と、恵みに対する感謝を感じます。春惜しむ、にしみじみと情感があります。

よし女:「相寄らず」にあの世この世の隔たりを感じるのは行き過ぎでしょうか。そして、「とも」に無常観、「春惜しむ」に事の変化のあった春の季節を、名残惜しく眺めておられるのではないでしようか。

敦風:「相寄らずとも」。すてきな表現ですね。見かけ、寄り添うているんじゃないが、「春を惜む」心は寄り添うている。そういう句だと思います。長年、連れ添うた二人。人前でちゃらちゃらした格好をしなくとも、いや,そういうことをしないからこそ、なお一層、思うところは同じなんですね。最近、萬屋錦之介の昔の映画「宮本武蔵」の TV再放映を見ましたが、巌流島の決闘に赴く武蔵が、見送るお通さんに、「つれない者が真実つれない者ではないぞ」と、武蔵にしては上出来の愛の告白をするシーンがあります。これなぞも、まさにこの句と通じる心を言ったものでしょうね。わたしは、こういう句に出遭うと、詠み手が男なら、これはもう「汝」は疑問の余地なく「妻」であると考えます。そうでなくてはなりません。ここでは、そうであればこそ、ともに歩んで来た二人の人生を大切に思う心を、惜春の気持ちに重ね合わせてこの句を鑑賞することが出来るわけですから、なおさらです。

みのる:敦風解のとおり、永年連れ添った二人、あるいは気心を知り尽くした親友・句仇同士、などという組み合わせと考えるといいと思います。不即不離つまり、互いに不可侵の関係を保ちつつ、思い思いの春を惜しんでいる情景でしょうね。客観写生ながら、「情」というものを感じさせる作品ですね。客観写生でありながら作者の深い思いが包み隠されている。私たちが目指しているのは、このような作品です。青畝先生の仰った言葉を思い出します。主観と客観は物心一如。 客観は手の甲、主観は手のひら、この手を握りしめれば、手のひらは内側に隠れて主観は見えなくなる。ともすれば主観があらわになることを戒められた先生のお言葉です。

02 駈けてゆく駿馬に似たる卯波あり

( かけてゆくしゅんめににたるうなみあり )

千稔:初夏の海の季節感と躍動感を、陸地を駈けてゆく駿馬と対比させた句だと感じます。年間を通じて身近に波の様子を観察できる地域に住んでおりませんので、卯月に起きる波が縦波になりやすいのかどうか良く分かりません。

よし女:卯の花の咲く五月ごろ、低気圧や不連続線の通過によって、川や海に立つ白波を、卯浪というのだと歳時記にあります。その波が、駈けて行く駿馬に似ているとの感慨だと解釈しました。鳥取県の白兎海岸あたりが浮かびます。横並びに次々と白波が立つさまは、駿馬が駈けていくように美しく雄大であることよ。と思われたのでしょうか。押し寄せてくる白い卯波を、私は、おびただしい白蛇が岸に迫って来るようにも思いました。

とろうち:さあ、苦手な海の句です。海を見ていると、左から右へ、波が頭をもたげては崩れていきます。あれが駈けていく馬のように見えたのかなと思いました。波打ち際に寄せる波を、私は「風の谷のナウシカ」に出てくるオームの群れに感じました。ちょっと俳句にはなりにくいですね。

一尾:卯波ありとしたところに観察のするどさがあるように思います。すべての波が駿馬ではない、その中に駿馬を発見されたのです。一瞬にして駿馬に比喩する発想は浮かびません。日頃から駿馬にご関心が高かったのでしょう。

ひろみ:駿馬は白馬でしょうか。波を、駈けてゆく馬に見立てられたのですね。駈けてゆく馬の首は上下に動きますが、高い波が低く崩れて、また後から波が立ち上がり崩れるという様がその動きのようであったと、思われたのではないでしょうか。一瞬の動きを見立てで表現する、すべてのものを、日頃から観察していないと出来ない句だと思いました。

みのる:卯波の形容はいろいろ句に詠まれています。僕の住んでいる瀬戸内では、千万の白兎が跳んでいるような情景が多いです。でも、この句はかなり大きな波なので、日本海か太平洋の句のように思います。駿馬のごとき・・と説明せず、駿馬に似たる・・と断定されたところが、上手ですね

03 牡丹百二百三百門一つ

( ぼたんひゃくにひゃくさんびゃくもんひとつ )

如風:数字のリズムが楽しいですね。入口の混雑ぶりも目に浮かびます。

千稔:門をくぐって細長い参道沿いに、牡丹を数えながら鑑賞して行ったが、戻り道は門が一つしかない為、身動きできないくらい混雑した様子だと感じます。この句の韻律を聞いて「五木の子守唄」の一番の歌詞を連想してしまいました。

一尾:牡丹園の広がりを感じます。百から始まって、その先はと期待を持たせています。そして門一つとしたところに引き締まった牡丹園の情景を描かせてくれます。わが家の牡丹はたった三つに門一つの貧弱と言うか贅沢というか疾うに時季を過ぎました

光晴:先日、町田牡丹園に行ってきました。門を入ると大輪の牡丹がわっと目に飛び込んできました。圧倒され凄い!としか声もでませんでした。これは凄すぎて句にはならないと諦めた情景を見事に詠みきっておられます。ちなみに、町田牡丹園は壱千株あるそうです。

とろうち:牡丹の花が百、いや二百三百と、ややデフォルメされた表現によって、牡丹園を埋め尽くす花の見事さと広さを感じることができます。そして「門一つ」と締めたことにより、ぴしっと句全体のピントが決まります。牡丹といえば例句に揚げられるほどの句ですが、やはりいいですね。

敦風:この句は、すこし言葉遊びの部分がありますね。ただし、単なる軽みを狙いとした遊びではないようです。「百」、「二百」、「三百」と畳みかけて言い、最後に「門一つ 」と「一」を持って来ることによって、牡丹園ないし牡丹寺の空間の広がりと配置を巧みに描いてみせた句のように思います。 「百」、「二百」、そして「三百」というのは、歩いて行く作者の目の前に広がり、作者の周りに咲き乱れる無数の牡丹を言うたものでしょう。そして、「門一つ」。作者の意識の裡にある背後の入り口の門は、一つなんですね。あるいは、牡丹園を歩んでいる作者が、ここで後ろを振り返って入り口の方を再度見たという、そういう思い入れのようにも感じられます。何にしても、「門一つ」を、見て歩く順路の順番通りに句の初めに置くのではなく、後ろに持って来たところが、何とも言えず趣きがあるような気がします。光晴さんは「町田牡丹園」ですか。関西の私は、牡丹と言えば奈良の初瀬の「牡丹寺」、つまり長谷寺ですね。でも、長谷寺は、この句から思い浮かべられる配置というか地形とは、少し違っているような気がしますけれど。

ひろみ:敦風さんのコメントと、ほぼ同じですが、私は、あまり好きではない句です。数字がこれだけ入っているのは、少し嫌味を感じます。竹百幹など、たくさんあるものをいう措辞として百や千、万などと表しますが、ちょっと百二百三百はしつこいと思います。でも、門一つ、という下五が、効いているのだと思いました。

みのる:この句は、高野山にある牡丹寺での作品と聞いています。百、二百、三百というのは、正確な数のことではなく、あらかじめの予想を越えて咲いている、牡丹園の規模にたいする驚きの気持ちですね。ごく小さな門であっただけに、一歩踏み入れての驚きの大きさを、少し大げさに表現されたのですが、それが成功した句ですね。個性的な作品を作るという意味では、思い切った表現をして冒険をすることも大事だと教わりました。

04 ぺちゃんこの財布で競馬賭けてゐし

( ぺちゃんこのさいふでけいばかけてゐし )

初凪:俳句は原則一人称で詠むべしという方もおりますから、これは青畝師ご自身のことでありましょうか? 競馬はおよそ似合わないと思いますが、それがまたおかしみを誘います。賭け続けてぺちゃんこになってしまったのか、ぺちゃんこだから一発勝負に出たのか、想像が色々出来て楽しい御句です。

千稔:意識しないうちに熱中させる魔力が競馬にはあったなぁ。と感じました。「賭けるつもりで見に行ったんじゃぁねぇが、競馬場の熱気に引き込まれ、つい小銭を賭けてしまったんじゃい」と聞こえてきそうです。

ひろみ:波を駿馬と見立てた句がありましたので、馬がお好きなのでしょうか? 賭け事をする人のペーソスを感じる句だと思いました。物だけでなく、人の心も観察されていると思いました。

如風:一攫千金を夢みる人の生活を案じる、心配気な、且つ温かい眼差しを感じます。

敦風:皆さんに同じです。金あんまり持ってなかったんだけど、そこはそれ、賭けちゃったよ。そう言って笑っていらっしゃる青畝先生の姿が見えますね。「ぺちゃんこの財布」が思い切って口語調で面白いし、「ゐし」が何やら思いがこもっているようでおかしい。しみじみとしたペーソスもあり、また可笑しくもあり。そういう句でしょうか。俳諧の原点を見るような気がして来ます。

みのる:この句、ちょっと意外な感じがして取り上げてみました。歳時記によると、「競馬、競べ馬」は夏の季語。京都上賀茂神社で5月5日に行われる神事とあります。さらに、講談社の歳時記には、「同じ競馬でも、ダービーなどの競馬とはまったく違うもので、現代の競馬は季題にならない」と書いてあります。でも、青畝師の詠まれている競馬は、馬券を買う競馬を暗示しているので、これも挑戦の句でしょうね。いまの競馬は年中行われているので、季感という意味では確かに希薄です。温室栽培の野菜や花、養殖の魚などを考えてみても同様ですよね。でも、それらは、自然の中で育って一番味のよいときを旬として季題になっています。そう考えると、競馬もダービーの行われる初夏が、その旬のシーズンだとする考え方も、あながち的外れとはいえません。青畝先生は、この作品を発表されて、外野席がどのように評価するかを問われたのではないかと思うのです。この句に関する事実関係は、僕は知りませんが、青畝先生にはそういった茶目っけな性格があられたことは事実です。

05 鯉幟せめぐ天竜河原かな

( こひのぼりせめぐてんりゅうがはらかな )

千稔:この天竜河原では鯉幟までもが、過去の歴史のように争っているように見えてしまう。と感じました。

遅足:「せめぐ」の意味が今ひとつ不明です。現代なら、河幅一杯に鯉幟が連なっている風景を思い浮かべるのですが、この句が詠まれた時には、そんな風景が見られたのでしょうか。子供たちが居なくなって家のなかに眠っていた鯉幟が、またお日様の下で元気に泳いでいる。しかし過疎の村となって子供たちの声は聞こえない。せめぐように泳ぐ鯉幟。だが子供達の姿は見えない。ちょっと哀しい鯉幟かも。

ひろみ:天竜川に行ったことがないので、わからないのですが。天竜くだりをしている時の風景でしょうか。際立った山に囲まれ、緑の中を泳いでいる鯉幟を想像しました。

如風:「せめぐ」は、鯉幟にかかっているのでしょうか。それとも天竜にかかっているのでしょうか。「雪解水で波高い天竜川の河原から、遠くに翻る鯉幟を眺め、初夏を感じている。」余談:岸から岸へロープを張り、鯉を吊るしているのも、鯉幟だろうか。

とろうち:急流逆巻く天竜川の上に、強い川風にあおられて、争うように川を遡るがごとく、鯉のぼりが泳いでいる光景を想像しました。実際、天竜川にそういった風景があるのかどうかは知りませんが。

敦風:川幅いっぱいにわたされた紐に、隙間もないほどに吊るされた沢山の鯉のぼり。これが風になびいているのを TVで見ました。まさに「鯉幟せめぐ」、「せめぎ合ふ」という情景。誰でも一句つくってみたくなる情景でしょう。青畝師は、天竜川でこの実景をご覧になり、この句を作られたのだと思います。この句は「せめぐ」が命なんでしょうね。この一語で情景を描き切った。そういう感じがします。「せめぐ」は、競い合う、対抗して争い合う、というような意味あいですから、遠く離れた鯉のぼり同士のことを言っているとしたら、これはすこし感じが出ないんでしょうね。それから如風さんが、「岸から岸へロープを張り、鯉を吊るしているのも、鯉幟だろうか」とおっしゃっているのは、如風さんも私と同じ情景を念頭に置いていらっしゃるようですね。如風さん、これは「鯉幟」でいいんじゃないでしょうか。

如風:小生は「せめぐ」は天竜にかかっていると思いました。雪解水が先を競っていると。河原にあまたの鯉幟は想像し難い。岸から岸への鯉幟なら、河原ではなく川だろうと。それと、確信はありませんが、他の川、乃至は河原のない上流なら兎も角、岸から岸への鯉幟は無理ではないかと。「鯉幟がせめぐ天竜河原」では、句にならないので「が」を取って、「かな」を付けられただけとは、思えないのだが。季語である「鯉幟」の名詞で切り、更なる展開。「河原に立ち、勢いのよい天竜、見渡す景色の何と初夏らしきことよ」合評での議論は許されるのですか。小生は、批判ではなく、建設的であれば良いと思っていますが。

敦風:如風さん。言い争いではなく、建設的なやり取りであるのならば、許されるのかも知れませんね。わたしもいくつかタブーに触れたり触れかけたりして、注意を受けた経歴があるので、大きなことは言えないのですが。句意の解釈の是非については、読む人の思いを別にすれば、青畝先生にきいてみないと分からないのかも知れません。ここでは、如風さんの言及された、主格を表す助詞の有る無しについて、たぶんみのるさんも、敦風の出番だよ、とおっしゃるだろうと決めてかかることにして、少し述べます。主格を表す格助詞の「が」や「の」、あるいは動作の対象を表す格助詞「を」などは、現代語では付けるのが普通であって、ついてないと奇妙なことになってしまいますが、古語においては、これらがついていないことがしばしばあり、これは、古文体に倣って作られる俳句の世界でもそうであるようです。例としては

  • 古池やかはづ飛びこむ水の音 芭蕉

青畝師の句でも、ここの「合評--今日の一句」に出て来たものでは、

  • しゃぼん玉俵にふくれ揚らざる
  • 土不踏なければ雛倒れけり
  • 草虱いつはさまりし聖書かな

などがあります。おおまかに云うなら、こういう格助詞は、昔はついていないのが十分ふつうの文章であったけれども、時代が移るにつれて、通常の文章ではだんだんと付けるのが普通になって来たと云っても良いようです。ただし、古典に倣って作られる俳句などには、古い時代の文章作法が生きており、それが上記のように実際の句の中に現れているわけです。格助詞の変遷や歴史についてのこれ以上の議論はここではやめますが、上記のことから、「鯉幟せめぐ天竜河原かな」は、「鯉幟が」の「が」を字数合せのために無理に取ったわけでもなく、また「鯉幟がせめいでいる・・・」と云う風に理解することも、文章構造上からはとくに無理があるわけではないと思います。

如風:敦風さん。ご高説よく分かりました。ありがとうございました。小生の解釈に無理があればご指摘して欲しかったのですがこれ以上は止しておきましょう。小生もみのるさんから、よくご注意を頂き投稿が恐ろしくなるのですが、何事も前向きにと、厚かましく投稿を続けています。

みのる:敦風さん、如風さん、お気遣い恐縮です。マナー、批判、議論ということについて誤解のないように少し説明しておきましょう。合評掲示板というのは、複数の参加者で共有するものなので、特定の二人が互いの意見交換でラリーすることは若干マナーに反しますね。また、鑑賞は、「自分はこう思う」という範囲にとどめるべきで、「そうではなくて、こうではないか」と、相手の意見を受けて自論を展開するのは、批判、議論だと僕は思います。また、当該句の鑑賞の範囲を逸脱して、長々と俳論を記述することも、鑑賞ではなく、議論になると思います。相手の鑑賞に納得した、教えられた・・という肯定的な意見は、批判、議論ではないですね。実際的には、難しい問題ですが、要するに、記事を投稿している人たちだけではなく、見ているだけ、いわゆる ROMの人もたくさんおられるということを覚えて、公共の掲示板を私物化しないように気配りすることがマナーとして大切です。 さてこの句、たくさんの鯉幟が互いにせめぎあっている・・という情景で、天竜河原は場所を示しています。勢いよく風になびいている鯉の情景と天竜川の流れの勢いという対象も、連想できそうですね。

06 女子安産やや不平あり柏餅

( じょしあんざんややふへいありかしはもち )

とろうち:なんとなく、電報の一文のような感じの句ですね。本当は男の子が欲しかったけど、生まれたのは女の子。ちょっと残念。といった気持ちなんでしょうね。でもきっと、やっぱり女の子もかわいいなあと、やに下がる翁顔になったのではないかと想像します。母子共々無事であれば、男の子だろうと女の子だろうといいよ、と暗に言っているような気がします。

如風:子供の誕生を喜び祝う句。それを諧謔に詠んだ。男女を問わず嬉しいではないか。まして安産、母子無事。目出度いではないか。子供の誕生の前に、祭りも正月も勝てるものはない。男の節句?、それがどうしたと云うのだ。第三者の句。親ならこの句は詠めない。いや、100人目の子なら詠めるかも。

敦風:これはもう、とろうちさんや如風さんの鑑賞で決まりじゃないでしょうか。青畝師の世代なら、男の子が欲しいと思われるときがありましょう。ましてや、ときは今、「柏餅」。男の節句じゃありませんか。息子よ、娘よ。よくぞ作った、よくぞ生んだ。それに、安産で良かったナア、ばあさんや。そこで、ちょっぴり自分の心をのぞき込む。「やや」不平があるんですな、これが。 だって、数ヶ月の間、口には出さないが、きっと男の子じゃないかな、男の孫が欲しいなぁと思って来たんだもの。予定日は五月初め。じゃ、これは決まりじゃなかろうか、・・・等々。そう思って来た。だから「やや」不満がある。でも、・・・息子よ、娘よ。よくぞ作った、よくぞ生んだ。それに、安産で良かった。ナア、ばあさんや、・・・なんですな。まあ、そういうおじいちゃんの複雑な気持ちを、「やや不平あり」と言い、そして「柏餅」と言って巧みに面白く詠んだ。そういう句だと思います。いい句ですね。ただ一つ心配なのは、この句を赤ちゃんの母親が見たときの反応です。ホント心配です。

千稔:当時は、生まれるまで男児か女児か全然分かりませんので、余計に期待感が膨らみ、男児が生まれる事を信じて、更に男の子の節句の日に生まれると言うので、お祝いに柏餅を作って、出産の知らせを待っていたのだと思います。そして、女子安産の知らせを聞いて「嬉しいんだけど、期待がはずれちゃったよ」とつぶやきながら、柏餅を食べている光景が浮かんできます。

ひろみ:やや不平あり、は、やはり女子安産にかかると読めば良いのでしょうけど、柏餅にもかかるようにも読めると思いました。上五、下五とも名詞ですので・・・もしも、柏餅にかかるとするならば、女の子が無事生まれたのに、世間では柏餅が売られている季節であることよ。という解釈になるかしらと思ったのですが。ちなみに、私の妹は、5月5日が誕生日です。母は、絶対に男の子を産むと意気込んでいたので5日まで、産むのを堪えたのに女の子だったと、少し、かなりがっかりしたようです。妹はそれを根に持っています。

敦風:千稔さんの「男の子が生まれるのを心待ちにして、柏餅を作って待っていたけれど、女の子だったので、ちょっとだけ期待はずれの気持ちでその柏餅を食べている」というのは、面白い鑑賞だと思います。私のように漠然と「柏餅の季節」などと云うよりも、はるかに絵になっている。ほんとうにそうかも知れませんね。

みのる:柏餅の季語が実によく効いていますね。これによって、男子誕生を期待していた気持ちがよく現れています。無事に赤ちゃんが生まれた安堵の気持ちと、ちょっと残念という複雑な気持ちが、滑稽に詠まれています。

07 白湯染めて新茶の味となりにけり

( さゆそめてしんちゃのあじとなりにけり )

如風:きっと、ご自身で点てられたのであろう。点て方は色々あるが、白湯が見えていたのである。茶は、色・香・味・温度。白湯から口にするまでの、所作・時間の経過が感じられる。「となりにけり」が見事に効いている。

千稔:新茶の味と言へども、白湯の温度、注ぎ方、煎じ方によって、それぞれの違った新茶の味がするものだ。と鑑賞しました。

ひろみ:白湯染めるとの言い方に、しびれました。新茶の色は、お茶の産地にも依ると思いますが、きれいな薄緑で白湯に馴染んでいないと言うか、白湯の色がわかると言うか、なんて言ったら良いのか、言葉が見つからないのですがとにかく染めると言う言葉、素晴らしいと思いました。

けんいち:この句の作られた頃に無かったでしょうが、回転すし屋等のパック入りの日本茶が頭に浮かびました。お湯にパックを入れると段々緑を濃くしてゆきます。程合いをみてパックを引き上げ飲みます。白湯を染めて、がパックという無粋なものから、しみじみとした感じに変わる。特に新茶時に新幹線で売られている弁当用のお湯と新茶パックが別になつているのがありますが、緑に変わるのが容器の外からも判り楽しい。このような今様の鑑賞をいたしました。

みのる:冷静に鑑賞すると、ちょっと矛盾のある句です。白湯染めて・・なので色のことですよね。でも、新茶の色となりにけり・・ではなくて、新茶の味となりにけり・・です。でも、何となく納得してしまう句ですね。このへんが、言葉の魔術師たる所以でしょうか。みなさんが、それぞれの実体験を通して、それぞれに鑑賞しておられます。そして、どんどん連想が広がっていきます。描写は一点に絞って、連想の力で句の広がりを出す。理屈でいえばそういうことなのですが、実践できるようになるには、ひたすら作句あるのみ・・です。

08 かげぼふしこもりゐるなりうすら繭

( かげぼふしこもりゐるなりうすらまゆ )

とろうち:繭を電灯などに透かしてみると、中のさなぎが透けて見える。いつの日か、繭を破って再び日の光の中にでてくるまで、籠もっている。それを詠んだものでしょうか。繭玉は綺麗ですよね。ただ中にいるのかと思うと、ちょっと触るのもびくびくなんですけど。繭以外の字がぜんぶ平仮名なのも、繭玉のなんとなくあたたかな、そして生命を中に宿している優しさなどを表していると思います。

千稔:蚕が繭を作り始める様子をじっとご覧になられたのでしょうね。明かりの下で蚕が繭を作り始めてから、暫くたって透明から半透明の繭状態の様子を読まれていると思います。繭の中に居る蚕は、まだ見えているし、糸を一生懸命吐きながら体をくねらせて繭を作り続ける様は、まるで影法師を見ているようだ。と鑑賞しました。蚕が一生懸命繭作りをしている様子が、まるでビデオを見ているように浮かんでくるのが、不思議ですね。

よし女:三、四年前上蔟間近の蚕を30数匹購入して観察した事があります。桑の葉も余る位ありましたが、50年前にタイムスリップして、とても懐かしく思いました。糸を吐き始めて、うすく繭の形になった頃、こもっている蚕が黒い影のように見え感動的でした。この蚕を「かげぼふし」と表現され、その繭を「うすら繭」と言われ、さすが練達の技ですね。このような感じ方、そして、このような素敵な言葉を習得したいものです。

如風:蚕に日差しは禁物。巻き始めた繭を、薄暗い屋根裏で、いつくしみながら作業する農婦の姿が影絵の如く見える。養蚕農家のご苦労を慮る優しさが感じられる。

敦風:漢字を使って、「影法師籠り居るなり薄ら繭」などと書くと、まったく感じが変わって来ますね。「繭」以外をすべて平仮名にしたのは作者の工夫でしょう。とろうちさんの鑑賞に同感です。 薄く透けて見えそうな繭の中のかいこを、「かげぼふしこもりゐるなり」と言い、「うすら繭」でふっくらと締める。言葉の使い方が絶妙で、句全体の言葉の流れが題材に呼応するかのように優しくきれいですね。「うすら繭」。「うすら」という言葉のほんとうの使い方を初めて知ったような気持ちがします。

ひろみ:かな書きのお手本ですよね。雰囲気でかな書きをしたくなるのですが、これこそ、かな書きならではの句だと思いました。実家に、楢の葉をつけたまま枝ごと落ちていた山繭を花入れにさしてあるのですが、うっすら中に影が見えます。もう2年経つので、孵化することはないと思うのですがちょっと、怖いです。

みのる:みなさんが共感してくださってうれしいです。生命の尊厳を感じさせますね。これぞゴスペル俳句・・という句ではないでしょうか。作者の小動物に対するやさしさ、愛情というものも感じられます。愛の心を持って対象物に向き合うと、このような句が授かるのだと思います。

09 巻貝の砂子をこぼす薄暑かな

( まきがひのすなごをこぼすはくしょかな )

如風:夏めいてきた砂浜を散歩していると、巻貝がひとつ。日照りのこんな処で大丈夫かなぁと拾い上げてみると、貝殻。中にはさらさらの砂。安堵するするやら、ガッカリするやら・・。死して打ち上げられたのだろうが、生身の貝なら、薄暑は過酷。生命の哀れを詠んだ。殻を出さないのが腕か。

よし女:浜砂にすこし埋もれたきれいな巻貝。拾って見るとさらさらと砂をこぼす。季節は薄暑。一年で一番気持ちの良い、明るい季節。巻貝、砂子と、美しい言葉に、洒落た感じの薄暑の季題が良く合っていて、好きな句です。

一尾:季語の動きそうな句と思いました。砂浜の巻貝か、持帰って机上に並べた巻貝か。薄暑であろうとなかろうと砂をこぼすこともできるしこぼれもします。 薄暑としたところに作者の特別な思いがあるのでしょう。浜には浜の季節ごとのよさがありますが、巻貝の砂をこぼす薄暑とは全く新しい視点です。浜吟行に活かそう。

千稔:場所は、やはり砂浜ですね。薄暑になった季節の変化をとらえた実感を詠まれている。と感じます。「巻貝のある同じ砂浜を、何度も散歩をしているのだが、晩春までは全然乾いても居なかった巻貝が、今日は、完全に乾いていて、中の砂子でさえサラサラこぼせる暑さが続く季節になったのだなぁ」

敦風:この句を読むとき、頭に七夕の唱歌の一節が浮かんできます。「お星さまキラキラ、金銀すなご」の「すなご」です。もちろん、この句の「砂子」はほんものの砂でしょうが、上記のようなイメージの砂、ないし粉末にされた金箔や銀箔のように見える砂を思いつつ句を読むのも、鑑賞の許容範囲でしょう。場所は砂浜でしょう。拾った巻貝の貝がら。作者は巻貝を手でちょっと回した。巻貝ですから、その動作で砂がこぼれる。きらきらと初夏の日差しにきらめきながら砂の粒がこぼれた。その美しい情景を詠んだ句だろうと思います。

とろうち:この句を読んだ時、やはり何故「薄暑」なのかと思いました。でも、やはり少し暑さを感じるようになった季節になれば、浜辺が恋しくなるものでしょうか。打ち上げられた巻き貝の砂がさらさらとこぼれるさまに、夏の近いのを感じたのでしょうか。たしかに夏本番の海ではありませんね。春や秋の海でもちょっと違う。うまく言い表せませんが、やはりこの季語は動かせないと思います。

ひろみ:薄暑、が今まで引っかかっていて、手が出せずにいたのですが、とろうちさんのコメントを読んで、納得しました。私は、薄暑よりも、秋の季語、もしくは、晩夏の季語がふさわしいのではと思っていました。でも、この句は、これから本格的に暑くなる前の浜辺で詠んだ句なのだなあと思いました。納得です。

みのる:とろうち解のとおり、一見季語が動きそうです。でも、繰り返し誦しているうちに、やっぱり薄暑だなぁ〜と感じてくるから不思議です。このような句のことを、取り合わせの句といいます。季語とはほとんど関係のないことを上五中七で詠んで、かつ季語の説明は全くしておりません。季語の持つ雰囲気と述べていることの雰囲気とに共感性があるか否かの問題なのです。あまりにもぴったり結びつくような取り合わせは、「つきすぎ」といって嫌われます。逆に、全く響きあわない取り合わせの場合は、「季語動く」ということになります。一番よいとされるのは不即不離、つまりつかず離れずのすれすれをねらうこと。そして、これが決まるとホームランというわけです。「優等生の俳句をいくら作りためても駄目、個性的なホームランの句を目指しなさい」と先生に教えられました。ホームランをねらって三振続きだとどうしてもめいります。でも、三振をおそれていては、ホームランも打てません。

10 あとじさる足踏みあひぬ荒神輿

( あとじさるあしふみあひぬあらみこし )

如風:荒神輿とは云え、左右に練るとき、前に進むときは合っていたのだろう。後退のとき初めて足が乱れた。その観察力に敬服。

よし女:この句、一読、二読と繰り返して、読み取りました。最初は、あとじさる/ 足踏み/あひぬ/ 荒神輿/ と読み、首を傾げました。荒神輿の足踏みが合うとは?・・足踏みは揃うとも言うし・・・そして、あとじさる足/ 踏みあひぬ/ 荒神輿/ となったのですが。

如風:よし女さん感謝。俳句は七五五でもよいのだ。眼から鱗です。

一尾:もともと荒れた神輿、お酒も入り足元不安定。進めば勢いあまってつんのめり、引いては身構え自己防衛本能が働く。それにしても腰砕けにならないのが不思議。取仕切るリーダーの存在があればこそです。

まこと:今日神田の古本屋街に出かけましたところ、神田明神のお祭りで、神輿がそれぞれの町内を練り歩いていました。前進はスムーズでも、曲がるときは少しごたついておりました。後退の場面はありませんでしたが、まずストツプして、足踏みしながら調子を整えつつやるのでしょうねえ。荒神輿では、他の人の足を踏んだりすることになるのですねえ。

千稔:最初は、「あとじさる足踏みあはぬ荒神輿」と詠まれたのではないかと思います。荒々しい神輿の動きと、あとじさる時の担ぎ手の足の動きを対照的に詠めば、「あはぬ」となりますね。でも、「踏みあひぬ」とすれば、本当に踏み合っているようにも見えるし、荒神輿と相まって、より荒々しい祭りの雰囲気が醸し出されていると感じます。

里登美:あひぬ、の「ぬ」は打消と完了の場合に使われますが、打消だと「あはぬ」で足踏みが合っていないとなって、荒神輿に掛かります。このお句は完了で足を踏み合っているではないかと思います。荒神輿の前で切れていて、神輿の担い手の説明になっていない。わずか一字の違いで情景はがらっと変わってしまうのですね。感服です。

敦風:祭の見ものはやはりお神輿。男衆の勇壮な神輿は見応えがあります。その荒神輿を詠んだ句ですね。勇壮だから勢いがある。それだからこそあとずさることもある。神輿があとずさるとき、あとずさるためのはじめの動作は、進むのをやめて止まって、その場でする「足踏み」です。その「足踏み」が担ぎ手皆なぴったりと「合った」。その整然とした動作を描写した一瞬の観察と描写。そういう印象的な句だと思います。ただ、あとずさるときの現象として、担ぎ手の「足」がおたがい「踏み合った」のかも知れない。そうとも読めそうです。しかし私は、「あとずさるための足踏み」が整然と「合った」、その見事さを詠ったという鑑賞をとります。その方が自然に思えるからです。

とろうち:みなさんのコメントを読んでいろいろと考えました。御神輿を担いでいる人の足下などなど。でも、担いでいる人たちの足並みが崩れてしまったら、とても担いでいるどころではないでしょう。ましてや「荒御輿」なら一層。で、私はこの「足」を「踏みあっている」のは見物人ではないかと思うのです。荒御輿の勢い、剣幕に、見ている人も思わず後じさる。その時後ろの人の足を踏んでしまって、さらに踏まれた人も後ろの人の足を踏んでしまって・・・。仮に、文法的に解釈すると、荒御輿を担いでいる人が足を踏みあっているなら、「足踏みあひし」もしくは「踏みあひたる」になると思うんですよね。あまり詳しくはないんですけど。青畝氏は荒御輿見物で、しこたま足を踏まれたのでは。

ひろみ:この句は、コメントするのが怖いですね。この句のポイントは、どこで切れているかなのですよね。私には、発見できません。こういう句の場合の、切れの探し方を教えてください。 私は、みのるさんのひらがな読みを見たので、あとじさる足/踏みあひぬ/荒神輿と読みました。 足踏みをまとめると、あしぶみ、なので、ひらがな読みは、あしふみとなっていました。荒神輿なのだから、足を踏んづけあいながらも、わっせ、わっせ、と担ぐ神輿のほうが迫力があるなあと思います。でも、読めば読むほど、わからなくなってします。早く解答を、お願いいたします。

こう:皆さんの評を読んでいると,いろいろな受け取り方があるなァと驚きました。私は、担ぎ手があとじさるとき、足踏みをし合って、息を合わせている一瞬を詠まれたと思いました。

みのる:御輿を担いでいる人たちの足が、後じさるときにもつれあうように、なっている情景を詠まれたと思います。荒御輿となっているので、喧嘩御輿のような風習なのでしょうか。前へ進むときは、前の人の足運びが見えるのでまずまず息のあった足さばきになるのでしょうが、何かの拍子に後じさることになってにわかに縺れて、踏みあうような感じになったのでしょう。それでも、強引に立て直して、再び勢いよく突進していく御輿衆の姿も見えてきますね。一瞬だけをとらえていますが、鑑賞する人の体験、経験によって、いろいろと連想の世界が広がっていきます。これが俳句ですね。

11 影法師わななきこぞる薪能

( かげぼふしわななきこぞるたきぎのう )

千稔:「わななきこぞる」のイメージを確認するための簡単な実験をしました。ローソクに灯をともし、手のひらを開いて垂直にし、5本の指の影が映るようにしてから、炎に息を吹きかけて揺らがせると、句のような影の動きが映りました。薪能の舞台から、視線を観衆のほうに向けると、薪に揺らぐ影法師が、謡いや音楽に同調する様に皆小刻みに震えて見えるのも幽玄の世界だなぁ。と鑑賞しました。

とろうち:千稔さん、実験とはさすがですね。薪能ですから篝火ですよね。ぱちっと薪がはぜた時、舞台の上にある影が一斉に幽かに揺れた。その一瞬を詠んだものだと思います。うーん、すごいの一言。

けんいち:薪能ですから屋外とみます。篝火だけを照明として演じられます。屋外ですから多少なりとも風があり、篝火ですから火の燃え方も刻々と変化します。この状況のなかで屋内で演じられるに比べ、常に光と影が微妙に変化します。演者自身も変化しますが、それ以上にその影はゆれ動きます。演者自身でなくその影法師に焦点をあて、薪能の幽玄さが強調されています。見事な句と鑑賞しました。

よし女:薪能の演者の影法師。その影法師が、恐れや怒りなど感情の表現に全員が加わって、シーンが展開している。句の言葉だけの解釈は前記のようになろうかと思われます。上演されている薪能はいま佳境。野外の客席からは一つのしわぶきも洩れず、ただ薪の燃える音だけ。夏の夜の薪能の、そんな幽玄の世界が広がります。「わななきこぞる」とわずか七文字の中に、舞台の演者の真剣な様子や、演目にのめりこんでいる観衆などが想像され、省略の素晴らしさを感じます。

如風:上演前、観客が大勢集まってくる。篝火に夫々の影が揺らいでいる。薪能を楽しみにしていた観客の期待感が、「わななきこぞる」によく表現されている。

千稔:どのような影法師を詠まれたのかが、難しかったですね。なるほど、上演前の様子ですね。如風さんのように解釈するのが一番自然だと思いました。「わななく」には辞書にも「ざわざわする」という意味もありますので。「下臈の物見むと、—・き騒ぎ笑ふこと限りなし/落窪 2」

敦風:能舞台の特徴は、なんといっても演者らの静かな動きです。初めて見たときは、あれは静止していると言いたいほどに見えました。薪能でも同じでしょう。しかし、篝火の作る演者らの影法師が、こぞって大きく揺れた。「わななきこぞる」は「こぞってわななく」の意であろうと思います。この句は、能の演者らの静かな動きと、彼等の影法師の揺れ動いたさまの鮮やかな対照の面白さを歌ったものでありましょう。影法師のその動きは、あたかも登場人物らの心の内面の激しい動きを表すもののように感じられるのかも知れません。

みのる:能を演じる人はこぞるほど多くはないので、この影法師はおそらく観衆だと思います。篝火と演じる人とを中心にして、大勢の人垣が取り囲んでいる情景だと思います。観衆は、じっと動かないで演技に見入っているのですが、風で篝火の炎が不規則に揺れるので、影法師がわななくように揺れるのです。「こぞる」は、(その場にいる者、それに関係する者が)一致した行動をする。いっせいにするの意です。「わななきこぞる」と「こぞりわななく」とでは、意味としては大差はないと思いますが、前につくことばは、形容詞的なはたらきになるので、前者は、「こぞる」に主体性があり、後者は「わななく」に主体性があることになります。どちらがよいという断定はできませんが、少なくとも青畝師は意識して、前者にされたと思います。

12 悉く楓と見たる緑かな

( ことごとくかへでとみたるみどりかな )

けんいち:小生の如き初心者が最初に鑑賞を述べるには、相当の勇気が必要です。しかし勇を振るって。この句には二重の意をこめていると鑑賞しました。若葉の状況を詠みながら、秋の紅葉の見事さを想像させます。それが悉く楓と見ると詠んだのではないか。単に新緑のみであれば楓のみの緑では変哲もありません。楓だけの紅葉は山全体を真紅に染め見事なものです。そのように鑑賞させていただきました。

とろうち:紅葉の美しい楓は若葉も美しいといいます。実際、若楓のみずみずしい緑は、それだけを見ていても美しいと思います。また字なんですけど、この句の場合は漢字が大きな効果をあげていると思います。悉(しつ)楓(さつ)という音を持つ漢字が、何か吹き抜ける風を感じさせてとてもすがすがしさを感じます。

如風:緑色の鮮やかな若葉。近寄って見ると楓。全山同じ色ではないか。嗚呼、秋には綺麗に紅葉するだろうなぁ。蛇足:新茶の味は一口飲めば、湯飲み全部の味が分かる

一尾:ゴールデンウィークの一日、昨秋出かけた紅葉ラインを歩いてみました。まさに新緑のトンネルでした。この時季、楓と緑は不思議ではありませんが、緑を悉く楓と見た断定的表現に自信の程が窺えます。これこそ観察の積み重ねによる経験の知恵です。

敦風:秋の楓紅葉もきれいですが、夏の楓の緑もまた綺麗ですね。日にかざしたりすると緑のかえでが透明に見えてさわやかな気分になるんだと、ここは人から聞いた受け売りです。『一面の緑。この緑はことごとく楓だ』。「と見たる」というのは、作者がそう見たという意味でしょう。ただ、「と見ゆる」とか「に見ゆる」などと言うのと「と見たる」とでは、読んで受ける印象がずいぶん違いますね。「悉く楓と見ゆる緑かな」ですと、これは緑の楓の観察結果の叙述のような感じです。ところが、この「悉く楓と見たる緑かな」ですと、そう見たと言っている作者の姿がぐっと見えて来る。緑の楓と、そしてそれを見ておって「全部かえでだ」と言っているその作者の両方が情景として見えて来るような気がします。「と見たる」という表現はあまりみたことがないように思いますが、いざお目にかかってみると、上記のようにかなり強い印象を与えられたような気がして、情景もいっそう鮮やかに見えるように思います。

千稔:この句は、珍しく客観が抑えられて主観が強い句ですね。しかも願望までも含んでいるように感じます。傍で見ている楓のように、目に映っている新緑がすべて楓だったら、どんなにかすばらしい光と新緑の色のハーモニーを堪能できるであろう。そうであって欲しいものだ。と鑑賞しました。楓の葉は、厚みも薄くて、ほぼ水平に近い状態で、あまり重なりもせず、適度な空間をたもちながら広がっています。木陰で見上げる楓は格別の美しさに見えるのでしょう。

けんいち:自分のコメントに自分が返信するという誠に変ではありますが、ご容赦ください。私の故郷に日本三大紅葉名所の一つと自称する場所があります。そこは岩石で形成された山でそこにへばりつく様に楓が自生していますが、その様な山ですから密生しているのではありません。 紅葉の時期にはそれが真紅に染まり、岩肌と微妙なバランスをとり見事であります。若葉ではかならずしもそうはならないのです。少年時代すごした故郷の原風景が今でも頭にインプットされてしまっています。楓の若葉が見事であるのは私も全面的に賛成であります。俳句を詠む場合はおそらく作者自身の主観が相当部分しめるのでしょうし、鑑賞する場合まず作者の主観を想像し行うのが正しいのでしょう。また客観的には俳句のルール、言葉の意味、等を理解した上でなければならないのは当然のことです。ただ初心者としては、自分の主観も交え気楽に鑑賞し楽しみたいとも思っています。この合評は非常に勉強になります。間違いを怖れず今後も投稿させて頂きますのでよろしくご指導お願いいたします。

みのる:緑ですから、若楓の頃よりは少し季節が進んで、初夏の感じです。「見たる」という表現は、緑と作者との距離関係を暗示していると思います。つまり楓林のなかに作者がいるとすると、「見たる」はおかしいからです。複数の樹木があつまった緑を、遠景から見ると、普通は濃淡があって斑に見えますね。でも、おそらく若緑一色にみえる情景が、「悉く」といわせたと思います。 青畝先生の作品は、平明なことばで何でもないように詠まれた句が多いですが、言葉を吟味し、何度も推敲を繰り返されます。一語一語のことばの斡旋に深い意味があることを、みんなで学びましょう。なお、この句から、秋の紅葉した様子まで連想を働かせると、季感が動いてしまうのでただしい鑑賞法ではありません。

13 玉垣や花にもまさるべに若葉

( たまがきやはなにもまさるべにわかば )

よし女:ある神社を取り囲む生け垣。花に劣ることなく、若葉のべに色が美しいことよ。そんな句意に解釈しました。これはトウダイグサ科の落葉高木、赤芽柏の若葉のことではないかと思います。私の地方では、たんに「あかめ」と言っていますが、今ごろの若葉はべに色で美しいです。 ことに摘み込みのよく揃った生け垣の新芽は、べに色が重なって濃く見え、とてもきれいです。花にもまさるの「花」は、特定なものではなく一般的な花を指していると思うのですが・・・

こう:神社にめぐらした赤芽柏の、美しい新芽をめでられたと思います。この時季本当にはっとするほど美しいです。花はよし女さんに同感です。実にすっきりと言い得て妙ですね。感服いたしました。

如風:常緑樹の赤芽は花と見紛う。師も最初花かと思われたのではないか。その驚きがよく感じられる。

敦風:「玉垣」は、単に神社を囲む生垣というだけではなく、やはり「玉垣」と聞いたとき、そして字を見たときに自然に思う、ああ美しい生垣だなあという、そういう生垣のことではないでしょうか。「べに若葉」。生垣として植えられて、みごとに赤い若葉を見せるものとして、私は「ベニカナメモチ」というのを見たことがあります。まるで花のようにも見え、非常にきれいです。その家の人に名前を教えてもらいました。「この神社の生垣。何ときれいなんだろう。ああ,赤い若葉だ。花のように見える。いや、花よりもきれいだなあ」。赤い若葉のものは色々あるのかも知れませんが、何にしても花よりも葉っぱの方がきれいだと言っているところに、作者の発見とこの句の面白さがある。そのように思います。

ご参考:「ベニカナメモチ(紅要黐)」

こう:なるほど、敦風さんの写真で見ると「あかめ」の若芽は、この花より美しいなぁ・・という意味なのですね。新発見です。有難うございました。

千稔:敦風さんとほぼ同感ですが、何故「玉垣や」なのかを考えると、神社などではこのような「べに若葉」になる樹木を生垣に植える事はあまり無いものと思います。玉垣の一面に咲き揃ったように見える花は何だろうと思い、近づいてよくよく見ると「なんと花にも勝る紅若葉ではないか」という発見・驚き・感動を詠まれた句だと感じました。ちなみに、私が見かけている木と同じであれば、この「べに若葉」状態は3〜4週間程度続きます。

みのる:たまがき【玉垣】は、

古くは清音。タマは美称) 皇居・神社の周囲に設ける垣。いがき、みずがき。

と広辞苑にあります。 このべに若葉は、赤芽のことでしょうね。玉垣といわれると、よけいに雅な感じがしますね。

14 雨二日莢豌豆の殖えにけり

( あめふつかさやゑんどうのふえにけり )

如風:雨続きで暫く畑に出ていなかった。久し振りに出てみると、なんと莢豌豆の艶やかによくなっていることよ。嬉しいではないか、自然の恵み有り難いではないか。当地では、莢豌豆のことを「きぬざさ」と称したと思いますが、今が盛りです。それにしても、みのるさんの句の採り上げ方がお見事。薪能にしても将に、ジャストタイム。いつも感心しています。

とろうち:雨などでちょっと間をあけて畑にでると、草も作物もたくさんになっている、ということは、もうしょっちゅうあります。夏になると、雨上がりに天気になると、あっという間に植物は伸びるのですね。まさに、そのままを詠んだという感じです。

千稔:「雨が降り続く中でも、休むことなく莢豌豆はちゃんと生産活動を続けていたんだなぁ」と鑑賞しました。

みのる:収穫期の莢豌豆は、毎日収穫しても尽きないくらい次々と実をつけるんでしょうね。雨が続いて二日ほど畑に出られれなくて、ようやくでてみると、たった二日で想像以上に殖えていたので、その繁殖力に驚いたのです。この時期には、緑雨といって数日間、雨が降り続くことがありますね。そうした季節感と、莢豌豆の収穫盛期の勢いとがよくわかる句ですね。

15 どの筆をとりても夏書疲れして

( どのふでをとりてもげがきづかれして )

けんいち:私にとっては非常に難解でお手上げです。なんとか理解しようとして辞書を引きました。夏書とは夏安居(げあんご)中に経文を写すこと、またはその写した経文とあり、夏安居とは夏の三ヶ月中僧が籠もって修行する事とありました。そこまででそれ以上、どのような意味かがよく判りません。ここからはかってな想像的な鑑賞になりますが、酷暑のなか三ヶ月も修行し写経するのは相当の疲労がともなう、師が夏安居をやられたとは考えられない、とすれば夏書疲れを一つの言葉とし理解します。即ち夏に書を書くが夏安居の僧と同じように夏疲れして思うようには書けない、筆のせいかと考え筆を変えても同じ、と嘆かれていると。大きな勘違いかも知れませんが勉強の為、投稿しました。

如風:小生に写経の経験はありませんが、師は目標を決め、長時間写しておられたのでしょう。失礼ながら、少々倦んでこられた気配を感じます。ご自身も自覚しておられ、「大師はどうだったのかなぁ」と。そこで、謙遜かつ洒落て「弘法筆を選ばず」の反対の句をものにされた。

けんいち:成る程、よく判りました。夏書は写経そのものも言うのですね。有難う御座いました。また一つ勉強しました。

とろうち:「夏書」という季語があるのですね。しかもちゃんと歳時記にありました。どうも、歳時記も「行事」の項はよく読まないので、見落とす季語が多いです。さて、この「夏書」はやはり写経そのものと解釈していいでしょうか。たくさん写経をして、どの筆も少々くたびれてしまった、と解釈しました。ほとんど筆書きなどしない私ですので、どれほど書けば筆がだめになるのか分かりませんが。

千稔:夏書を終えて、自分自身も疲れたけど、一緒に書いてくれた筆のそれぞれの筆先が、擦り切れているのを見て、いたわりの思いを詠んだ句だと鑑賞しました。

よし女:多くの筆があり、どの筆を手にとって見ても、夏書疲れが沁み込んでいる。筆に託して、真剣に夏書をした人を思い、「ごくろうさん」と、その人たちをねぎらっておられるように思われます。

千稔:よし女さんのように、夏書始めか、夏書半ばの様子と解したほうが、ピッタリしますね。

みのる:夏書は、自分の筆を持って行くのではなくて、お寺に備えてあるものを使うのでしょう。 さて、書き始めようと、筆をとったところ、どの筆もしゃきっとしていないものばかり。多くの人に使われた筆は、どれも腰が折れていたり、ノの字に反ってしまったりで、まともなのが見つからないのでしょうね。ぼくは、経験がないのですが、そのような安居寺の様子が連想できます。

16 悔いなしと嘘つく女芥子の花

( くいなしとうそつくをんなけしのはな )

とろうち:芥子の花というのは、いろいろなイメージがあります。うつむく蕾はどことなくエキゾチックで、花は美しくたおやかな反面、どこか狂気を孕んでいるような感じがします。他の花と違って清楚、健康的というイメージはなく、どこか病的で、近づいてはならない反面強く惹かれるタブーのようなイメージがあります。それはどこか、「女の嘘」に通じるものがあるかもしれません。悔いはない、と言いながら、心の中は後悔でいっぱいなんだろう、そう思わせるものが、この女の人にはあったのでしょう。傷ついた心をこれ以上傷つけないための嘘。弱々しくて、可憐で、したたかで、ふてぶてしくて、女そのもののような。この嘘が哀しいものなのか、それとも小悪魔的な嘘なのか、ちょっと私には読み切れません。ただ、「芥子の花」と「女の嘘」というのが、もうぴったりとくっついて離れないという気がします。印象に残る句です。

よし女:身近な女の方のことでしょうか。来し方に、いくつもの悔いを残しながら、会話の中では「決して後悔をしていません」と、もっともらしく空とぼけているのだろう。との師の思いを詠まれたのでしょうか。美しく大きな芥子の花の、象徴性、連想性が、この女人の後悔の深さを助長しているように思われます。季語の働きを生かした、見本のような句だと思いました。多くの女性の心に、通じるものがあるようですね。

けんいち:芥子の花は、小唄などでは「艶消し」をあらわす事もあるようですね。語呂合わせなんでしょうが、そんな事を入れて鑑賞すると面白い解釈も出来ます。なんだ嘘なのか、いままで可愛いと思っていたのに、艶消しだナ、と。以上について本日の朝投稿したものです。その後色々考えてみました。まず肝心な事は、俳句は川柳等と異なり駄洒落で詠むものではない、と反省した事であります。ましてや師がそのような句をおつくりになる事はない。芥子の花は実態そのものは何処から見ても艶消しとは見えず、単なる語呂合わせにすぎない。芥子の花は可憐でか細げであります。この句はそんな芥子の花と、嘘をつかざるを得ない女の性とをぶつけあつた句と鑑賞します。自分の思考過程まで含めて恥をさらしましたが、よろしくご理解ください。

みのる:実際に芥子の花がそばにあったかどうかは定かではないですが見事な取りあわせです。 なにか、小説の世界を思わせる句ですね。「悔いはないわ・・」と自分自身を納得させようとする彼女の心に、嘘があることを作者は見抜いているわけですね。俗にいう「女ごころ」でしょうか。その原因は男女関係かもしれないですね。そんな艶っぽい連想が働きます。歳時記で、芥子の花を調べてみましょう。

茎はしっかり直立し、頂の蕾はうつむいているが、開くと萼を落とし上を向く。
薄い四片の花びらは優雅で散りやすい。・・中略
未熟な実から阿片が採れるので栽培は制限されている。
蕾はうつむいているが、開くと上を向く
優雅で散りやすい
実から阿片がとれる

このへん、女性と共通した感じがするのは、僕だけでしょうか。ごめんなさい。>女性の皆さん。 合評記事への書き込みに当たっては、必ず歳時記を開いて季語の特徴、用例などを予習をしてから鑑賞するようにいたしましょう。

17 高御座めきたり天の朴大輪

( たかみくらめきたるてんのほほだいりん )

いなみの:高くのびる枝先に咲く朴の花の白さは高御座の名に相応しい姿に見えます。渓流釣りの谷川で毎年見上げてきましたが、この句を拝見して目から鱗が落ちた気がいたしました。

よし女:このお句納得出来ます。落葉高木の朴の木は20メートルくらいになり、五月(丁度今ごろ)、枝先に九枚のはなびらを持ち、黄色味のある白い大きな花が上を向いて咲きます。下からは見えにくく、上から見下ろす位置で眺めると、清らかで豪華です。大輪とあるので一と際大きな花なのでしょう。それが天にあるように見え、まるで、天皇の玉座のようである。青畝師の強い感動が伝わってきます。私も十年ほど山歩きを楽しんでいた時期、この花に出会うとわくわくしました。

18 リクルート事件の袋掛けにけり

( リクルートじけんのふくろかけにけり )

よし女:枝になりはじめた果物は鳥や害虫によわいので、新聞紙やハトロン紙で作った袋をかぶせて防ぎます。袋をかけた果樹は白い花が咲いたように見えます。出荷する果樹園での仕事は大変でしょうが、自家製の数本の袋掛けは、明るく楽しい仕事ではあります。その袋に、世間を賑わした、あのリクルート事件の記事が載っていたのでしょう。新聞、或いは週刊誌などで作った袋が想像できます。このお句、うーん?と、惑わされました。始めは、リクルート事件の記事の切り抜きを入れた袋を壁に掛けたの?と思い、それでは季語が働かないと思い返しました。一人苦笑しました。

千稔:タイミングよく、談話室のさちえさんの質問に合わせたような「けり」の題材句のようにも思えますが、考えすぎかな。それとも、中七と下五の季語またがりの例題でしょうか。世間を騒がせた大事件も解決して、今では記事も袋掛けの袋になって、袋掛けも終わった袋のままだよ。と鑑賞しました。この句の「けり」の使い方は、リクルート事件と実にうまくマッチさせた高度な使い方のように思います。

けんいち:私は一読した時意味がよく判りませんでした。季語は袋掛でしょうが中七と下五にわかれている。それも一つの原因でありました。なんだろうと再読を繰り返し、リクルート事件を報じた新聞等の紙で作った袋で袋掛をしたとようやく理解しました。しかしそれがどうした? と一瞬頭によぎりました。政財官を巻き込んだ一大事件発覚したのは約14年前、江副被告の最終判決がつい最近おりましたが、新聞に報じられてはいたものの、もはや忘れられようとしております。そのリクルート社もその後ダイエーの傘下にはいりそのダイエーが消滅寸前にある。青畝師がこの句を詠まれたのはこの事件の真っ最中ではなかつたかと私は推測します。いま私がそれがどうしたと考えたと申しあげましたが、今振りかえってみると、この種の問題に当時国民はもつとビビッドでありました。いまは余りにも多すぎ、国民はまたかとあきらめている。その意味では、このような形で事件を句にされたのは、当時として非常に新鮮だったのではないでしょうか。句の構成から、主体は袋掛でなくリクルート事件にあると鑑賞させていただいたのが、この解釈の大きな理由です。余談ながら、私つい最近まで梨畑の多くある地にすんでいました。この10年ほど毎年見ていましたが、袋掛の袋はおそらく農協あたりの販売品でしょう、白い袋で師の詠まれたような資源再利用のものを見た事はありません。これも農家の人手不足からくるのでしょう。世の中の変遷の激しさを、あらためて感じた句でもあります。

とろうち:リクルート事件のような事件は、庶民には新聞の中で読む世界のこと。そんな大金の動く世界とはなんの関係もないというように、無造作に袋になって、果樹に掛かっているよ。けんいちさんのおっしゃるとおり、当時は本当に世間を騒がせた事件でした。でもああいった世界は、農家の人にとっては、作物の出来、不出来ほどの興味もひくものではないのでしょう。おもしろい取り合わせだと思います。

如風:「臭い物に蓋」の処し方に、師の憤慨を感じる。川柳か?、毀誉褒貶のある句と思うが、師の決断に拍手。師は、世捨て人でもなければ、風流人でもない筈。

敦風:袋掛の袋が、リクルート事件を報じた新聞を切って作ったものなのでしょう。(1)袋を掛けているとき、(2)袋を掛けた人が掛けた袋を見ているとき、(3)袋を掛けているのを、あるいは袋が掛けられたのをそこへ来かかった人が見ているとき、・・・。情景はいろいろ考えられるが、(3)の「来かかった人」という感じではなかろうか。袋掛の袋。ああ、リクルート事件の記事だ。で、「かけにけり」の感慨。どういう感慨だろうか。さまざまに想いの広がりそうな句です。またその広がりがこの句の命かなぁとも思います。私なら、都会の人間臭い事件と農村のゆったりとしたたつきの営みとの対照。とろうちさんの鑑賞とほぼ同じ。そういう感慨なのだろうと思います。

みのる:広辞苑は何でも載っていますね。

【ロッキード事件】
 アメリカのロッキード(Lockheed)社が航空機の売込みに関し、日本の政界に多額の賄賂を贈った疑獄事件。
 1976年米上院外交委員会で発覚し、前首相らが逮捕された。

【リクルート事件】
 情報産業会社リクルートと、政界はじめ各界との贈収賄事件。1988年に表面化し、竹下内閣崩壊につながった。

昭和50年代初期の日本経済で大騒ぎとなった二つの事件は有名です。現代の袋かけは、みな白い袋になりましたが、当時は古新聞で袋を作っていたのです。古新聞といっても、何年も前のものを使いことはないので、せいぜい半年か1年ほど前の記事が載っていたと考えるのが素直でしょうね。事件そのもののことを批判したり揶揄する気持ちは作者にはなく、世間の騒ぎやまやかしの世界に生きている人たちと、自然の営みの中で誠実に働いて生きてひとたちとのなりわいの対象を詠まれたと思います。 何度も書いていますが、合評・鑑賞では、A,B,Cの三通りが考えられるが云々・・というような句の解説は不要です。これをやりだすと、他の人が鑑賞しにくくなりますし、合評記事としてもまとめにくいからです。的はずれになると恥ずかしいから・・という気持ちで鑑賞すると、あいまいな学びになり身に付きません。自分はどう感じて、どこに共感した。どの部分に教えられた、勉強になった。というふうに具体的かつ明快に勇気をもって書いてほしいです。

19 海亀に風紋千里ありぬべし

( うみがめにふうもんせんりありぬべし )

よし女:海亀のために風紋の出来るほどの美しい砂浜が千里も続いているのであろう。海亀が産卵に来るという美しい砂浜での、青畝師の感慨でしょうか。砂浜が本当に千里続いているのではなく、それほど長く広く感じられるということだと思います。海亀が砂浜に上がってきて産卵するテレビ映像を思い出しました。きれいな砂浜に、自分の後足で穴を掘り卵を産んでいました。目から涙を出して。毎年決まった浜に産卵に来るのが年々減っていて、土地の人は、清掃したり、騒がないように気を使っているようです。南の島か、本州なら鹿児島あたりでしょうか。孵化した子亀が、海に戻っていくのも合わせて、一度目にしたいものです。

里登美:海亀が産卵を終えて海へ帰ろうとしているとき(又は産卵の為に浜辺に上がるとき)、幾重にも連なる美しい風紋も、海亀にとってはその起伏を乗り越えて目的地へ到達するには、非常に遠い距離に違いない。と、私は海亀の目線を感じました。

千稔:海亀が産卵に来るのは、5月から8月の夜ですから、師は産卵に来るという砂浜に昼間行かれて、その場所の砂浜の風紋現象を御覧になリ、海亀を思いやって詠まれた句だと思います。「この砂浜の風紋現象は、きっと、海亀の卵と子ガメを守るために起きているのに違いない」と鑑賞しました。海亀の方が、産卵の足跡を残さない砂浜を選んで来ているのかも知れませんね。

けんいち:毎年同じ浜に来て、卵を産み落とす亀。亀は万年といふが、何十年も同じ営みを繰り返しているのであろう。風紋のある長く続く浜、風紋の模様は変わってゆくであろうが、その美しさはかわらない。自然の悠久の営みが、ひしひしと感じられます。

敦風:この句は、「千里」が難しいように思います。少々の込み入った砂浜の地形でも、産卵場所への道程など、海亀が海から歩く距離が千里もあるとも思えない。とすると、これは海亀の長い寿命のあいだに歩き続ける道のりの積算を云った。そういう思い入れであろうかと思います。砂浜を歩く海亀。そして美しい風紋。風紋は海亀のためにあるもののようだ。万年ともいう長い一生のあいだを、こうやって風紋の砂浜をゆったりと歩く海亀よ。「海亀に」の「に」、そして「ありぬべし」との措辞。海亀をいとおしく思い、生命の営みをいとおしく思う作者の気持ちが感じられる。そういう句でありましょう。

とろうち:孵化した子亀が海に帰っていく姿を想像しました。砂の中から浜へ出てきた子亀にとって、海までの十数メートルは千里にも相当するものではないでしょうか。海にたどりつくまでには、死の危険もある。一生懸命手足を動かして海に帰っていく姿を、優しく見ている目を感じます。

みのる:「べし」は古語(助詞)で辞書には、

・・・だろう(推量)(可能)。・・・ができる(当然)。・・・はずだ(義務)

とあります。俳句では強い推量の助詞として使われることが多いようです。きっと・・・に違いない。というような感じです。さて、みなさんの意見が分かれたようです。ことばは平明ですが、どう解釈するかは難しい句ですね。ちょっと、情景を分析してみましょう。作者の眼前に展けているのは、広々と風紋の浜であることは想像できます。またこの浜は、海亀の産卵場として有名なのでしょう。海亀が産卵に来るとき、あるいは産卵を終わってかえるとき、はたまた卵から孵った子亀が一目散に海へ戻ろうとするときは、いずれも夜ですから風紋は見えません。ですから、いま作者の目の前には海亀はいないと判断できます。折から、海亀の産卵期。つまりこれがこの句の季感です。つまり、千稔解のとおり  

”産卵に来るという砂浜に昼間行かれて、その場所の砂浜の風紋現象を御覧になリ、 海亀を思いやって詠まれた句だと思います。”

ということになるでしょうか。

* 産卵のために長旅をし、ようやくたどり着いたこの浜辺をさらに産卵場所へと移動していく海亀にとって、この風紋の浜は、人間の千里にも感じられるくらいながいものであることよ。

*海亀たちの産卵のために、大自然の摂理はこの千里にも及ぶ広大な風紋の浜を備えているのだろう。

子亀を連想するのはやや無理があると思いますが、上の二つのうちどちらがただしいとは、断定しにくいですね。ぼくは、前者の解の方が好きです。この句の場合の「千里」は、正確な数値を意味しているのではなく、長い、広いという意味の形容と考えるのが素直だと思います。「七曲がり」「九十九折」などと同意の用法です。

20 山女釣股間をひろげたるままに

( やまめつりこかんをひろげたるままに )

如風:足場のよくない渓流であろう。ひたすら曳きを待つ釣り人の眼差しを感じる。

よし女:山女など渓流釣をする人は、胸までもあるゴムの長いズボンを穿いて、川幅の中まで入って竿を打っているようです。流れがあるので、股間を広げたまま腰に力を入れて立っていないと、倒れたり、流されたり、する危険があるのでしょう。釣の様子を暫く観察していないと一句にならないお句ですね。

千稔:「ままに」で上半身の動作を一切詠み込んでいないのに、両腕で竿、糸を振りながらうまくコントロールして釣っている様子が見えてきますね。師が「山女釣りって、どうやって釣るんだろう?」と興味を抱いてじっと御覧になっている様子が浮かんできます。「なるほど、足を前に開いて下半身を安定させて、上半身で持って、ああやって釣るのかぁ」と感心された句ですね。

みのる:渓流釣りに詳しい方の鑑賞がほしいところですが、他の魚、たとえば鮎やあまごでもよければ、季語が動きます。つまり、山女という魚の生息している環境条件というものが、この句の生命線になるわけです。釣り人たちは「山女魚」と書くようです。「岩魚(いわな)」もそうですが、かなり山深い渓流に生息するようで、大変神経質な魚なので、釣り人たちは、岩陰に自分の姿を隠して竿を伸べます。揚句の情景はそのような足場の悪い岩場に足を踏んまえて、アクロバットのような格好で竿を出している釣り人の姿でしょうね。

21 草笛のソプラノにふり向きにけり

( くさぶえのソプラノにふりむきにけり )

けんいち:五月晴れの高原、ゆっくりと風景を愛でながらあるいている。突然後ろから、甲高い草笛の音が、ふりむいたが吹いている人の姿はみえない。ただ今歩いてきた風景がひろがっているだけ。これだけの簡単な言葉で、360度の風景が読む人の目に浮かんでくる。ソプラノといふ言葉がよく効いていると思います。これを吹く音とすれば全然感じがかわります。

よし女:草笛をうまく吹く人は本当に上手ですね。女性の声のような高音の巧みな草笛が聞え、感心して振り向いたのでしょう。どんな人だったのか、話ができたのかなど、想像が広がって楽しいお句です。

千稔:草笛の音色なんだけど、まるでソプラノ歌手が歌っているかのように聞こえてきたので、どのような人が吹いているのだろうと、思わず振り向いてしまったよ。と鑑賞しました。

敦風:屋外ですね。草笛が聞えて、振り向いた。それだけを言っていますが、「草笛のソプラノに」と言い、「ふり向きにけり」と句またがりで言うリズムがなんとなく快い。「ソプラノ」という表現によって、単に高い音と云うだけでなく、そのメロディーまで聞えて来そうです。振り向くことによって情景が広がり、そしてその広がりが、時間の広がりにもなって少年の日の追憶や郷愁へと広がりそうな気までもして来る。一瞬を描きながら、そういう快い広がりを感じさせてくれる句。そういう風に思います。

如風:堤かどこかを歩いていると、突然うしろから音色の高い草笛。短い擬人化の「ソプラノ」が活きている。

みのる:はじめは、ピーとが、ブーとかの短音が鳴っただけでもうれしいですね。不器用な人は、うんともすんとも鳴らないこともあります。ですから、メロディーを奏でるまでに上達するのは至難です。ソプラノを広辞苑で調べると、

ソプラノ【 soprano イタリア】
1)女声の最高音域。高音。また、その音域の歌手。ほぼ同じ音域の男児の声にもいう(ボーイ‐ソプラノ)。
2)対位法で、最高音部。

この場合の、「ソプラノ」は擬人表現というよりも、その音色を指していると思います。

22 パン屋の娘気安く薔薇を呉れにけり

( パンやのこきやすくばらをくれにけり )

よし女:パン屋の娘と薔薇の取り合わせが面白いですね。気安く薔薇を呉れると言う娘さんなので、青畝師がよく買われるパン屋さんなのでしょう。思いがけなく薔薇の花を手にされた、気恥ずかしいような、弾むような心が察せられて、ほほえましいです。美味しいパン、健康で愛嬌の良い娘さんが想像され、よく売れているのでしょうね。

千稔:全く同感です。パン食をなさってて馴染み客になられていたのだと思います。

如風:誰でも貰える訳ではなかろう。娘の機嫌が良かったのか。師の少々の驚きと共に嬉しさを感じる。きっと、バラはピンクか紅。気さくで明るく、バラのような娘であろう。

みのる:季語も動きそうだし、何の変哲もない句ですが、青畝師のことばのマジックにかかると一句をなすので不思議ですね。現代のようなハイカラなベーカリーではなく、手作りパンを売っているようなお店を連想します。作者は、この店のパンを贔屓にしていたのでしょうね。おそらく、お店の庭で栽培している薔薇がたくさん咲いていたか、剪ったものがお店に飾られていたのを、「綺麗だね・・」と、挨拶代わりに褒めたら、「よかったらどうぞ・・」とほほえんで、プレゼントしてくれた・・こんなストーリーでしょうか。

23 洟かんでしまふ小僧の夏書かな

( はなかんでしまふこぞうのげがきかな )

如風:中々上手く写せない小僧が、嫌になり書きかけの半紙で鼻をかんでしまう。いくら裏でかんでも、和紙のこと、鼻に墨がつくのでは・・。小僧さんの顔を連想してしまう滑稽な句である。

いなみの:じっと俯いて写経をしている小僧、鼻水が垂れそうになってつい手近な紙で噛んでしまう。写経はうまくできないし。マーいいかといった情景でしょうか

遅足:我が子のことを思い出しました。小学校4年生の頃、算数が苦手でいくら教えても駄目でした。ついに彼は鼻水を出して、勉強に抵抗し始めたのです。次々に出る鼻水。鼻水は子供なりの自己表現と気づくには、それなりの時間が必要でしたが。おそらく、この小僧もお経の勉強が嫌だったものと同情します。

千稔:まだ小僧になったばかりの子供さんと見えて、夏書の途中に、夏書用の紙で洟かんでしまふ様子は、自分の子供や孫と同じなんだと思えて、微笑ましくもあり、おかしくもあり。と鑑賞しました。

みのる:コメディー映画の一幕を見ているような気がします。お寺の小僧さんではなくて、大人と一緒に来た子供が無理矢理写経させられているような風景かもしれません。

24 補聴器がぴいぴい衣更ふるときに

( ほちゃうきがぴいぴいころもかふるときに )

千稔:衣更えをするときに、補聴器が私も一緒に変えてください(電池交換)と「ぴいぴい」鳴いて「あぁそうか、おまえにも1シーズン世話になったなぁ」と話し掛けながら、電池交換をされる様子が浮かんできます。

如風:母在命の頃、試しに補聴器を耳にしたことがあるが、ハレーション(補聴器から出た音を補聴器のマイクが拾うこと)を起こしピーピーと堪えられなかった経験がある。補聴器が耳穴にキチンと装填されていないときに起こる現象。さて本題。着替える動作で、補聴器がズレたのであろう。衣擦れの音がハレーションを起こす。本来、清々しい気分になる筈の衣替えに、不快感を覚える。「あ〜、歳はとりたくないものよ!」

遅足:母は86歳、このところ耳の遠いのが会話の妨げになってきました。だが補聴器をガンとして拒否しています。衣服を着替える時など、つい手が耳にさわると、ぴいぴいと鳴るのが嫌みたいです。衣替えの際、すっかりなじんだ補聴器に触れてしまった。忘れていた補聴器が自己主張しているように鳴る。そんな風景かな? 母もいい加減にあきらめて補聴器のお世話になってほしいな。

敦風:衣更えのときに補聴器がぴいぴい鳴った。そういう句です。「衣更え」と「ぴいぴいなる補聴器」の取り合わせが珍しく面白く感じられます。気になるのは、下五の「かふるときに」の字余り。句としてのおさまりが悪そうでちょっと解せません。それと、「補聴器が」の「が」の音が少し強そうで気になります。残念ですが、あまり好きになれない句です。

みのる:補聴器は高感度なので、イヤホンを耳からはずすと、ぴいぴいとハウリングおこします。 情景は皆さんの鑑賞されたとおりですね。補聴器に意志があるかのように詠まれたところが滑稽ですね。青畝師は幼い頃の病気が原因で難聴。先生にとって補聴器は分身、友達のようなものなんでしょう。字余りの句は、あえてお勧めできませんが、上級者はテクニックの一つとして効果的に使うこともあります。

"補聴器がぴいぴい衣更ふるとき"

とすることで、正調になりますから、青畝師が意識的に、「・・に」を配されたことがわかります。 ぼくは、この「・・に」によって、説明調となるのを救い、また師の補聴器に対する愛情が表現されているように感じますが、みなさんはいかがですか?

25 日々古葉降れども樹齢不詳とす

( ひびふるはふれどもじゅれいふしゃうとす )

けんいち:私の所有する歳時記を見た限りでは、この句の季語がなにか判りません。但し常盤木落葉があり、松、杉、樫、樟、等の常緑樹の新葉が整うのを見届けた様に冬を越した古葉が落ちるのを総称するとあり、又それぞれに松落葉、杉落葉、等の季語があります。この句の古葉がそれに相当すると鑑賞します。これらの常緑樹は、たとえば屋久杉のように千年を越す樹齢の木があり、又各地に神樹として長寿の木が多く見られます。樹齢が判らない程古く太く高くそびえ根元が古び大きく広がつている木から、毎日のように古葉が落ちてきている、もうおしまいと思ってもまだ落ちてきている、それだけ又新しい葉がでてきているのだな。人間を含めた動物と違う、樹木の生命力を感じさせられます。

遅足:どのくらいの大木なのか。毎日、古くなった葉を落としているな。人間も年をとると、いろんなモノを落としていくようだ。昨日まで覚えていた花の名前がもう思い出せない。花の名くらい仕方がないが、知人の名を忘れてしまった時は、ちょっとあわてたな。だが、年のことは忘れよう。ある年を超えたら年齢不詳だ。こう開き直って、もう一度、大木を見上げてみると、木も笑っていた。こんな感じの句と読みました。

とろうち:最近、難しい句が多いんですよねー。いや、最近に限ったことじゃないんですけど。よく、矍鑠たるご老人に「そのお歳に見えませんね」なんて言うことがありますが、この句もそんな感じかな、と思いました。ずいぶんと老齢の木、でもまだまだ現役。古い葉はどんどん落ちていくけど、新しい葉もどんどん出てくるよ。ちょっと自信はありませんが。

千稔:樹齢を重ねた老木であっても「日々古葉降る」ほどに新陳代謝が活発な木は、樹齢何年とするよりも樹齢不詳と表現したほうが相応しいではないか。と鑑賞しました。

敦風:古い木。日々古葉が降って来る。樹齢? 知りませんねえ。「古葉が降る」というのが夏の季語なんでしょうね。これは初めて見ました。「樹齢不詳なり」などではなく、「不詳とす」としたところに、この句における作者の思いがあるのかなと思います。ほんとうに不詳かどうかは別にして、樹齢などをあれこれせんさくするのはやめて、ただ古葉の降って来るのを見ている。そういう作者の思い。理屈っぽいことは止めにして自然に同化している作者の心が感じられる。そういう句のように思います。

一尾:まず浮かんだ言葉は「年々歳々花相似たり、歳々年々人同じからず」です。樹齢不詳なれど去年と今年では違うんですよ。「いいですか、よく見て下さい」と観察の大切さを教えているようです。

みのる:老大樹であることは一言も言ってないのですが、一句の雰囲気でそれとわからせるところがうまいですね。あまりのみごとな風格に、土地の人に樹齢を尋ねたところ、「さーて、わからんなー」というようなのんびりとした会話が聞こえてきそうです。あまり俗化が進んでいない土地柄であることも連想できます。自然の生命の尊厳ということも感じさせる句ですね。

26 二つあるゆゑ耳塚よ松落葉

( ふたつあるゆゑみみづかよまつおちば )

いなみの:静かな朝の空気が感じられる句と拝見しました。老松の下に並んでいる塚、散り敷く松葉、時間を越えた静けさを感じました。二つあるゆゑと言ふことばは説明ともとれますが、それを気にさせないのは句の力でしょうか

遅足:この句の命は二つという言葉のようです。なぜ耳は二つなのか? 私には分かりませんが、作者は心に落ちるモノがあったのでしょう。耳をすます。そんな時はやはり片耳では、間違ったりするのかな? 一つの声のなかに秘められた裏の声、もう一つの声を聞き分けるために耳は二つあるのかな? そういえばお前も二本で一つだな。そんな思いを松葉に尋ねたのかな?

とろうち:これも難しい句ですね。耳塚の不幸な歴史を考えると、「二つあるゆゑ耳」というのはとてもシニカルです。血みどろで残忍な歴史、それらすべてを呑み込んで耳塚は立っている。人間が人間にしたこの仕打ちを、私達はけっして忘れてはいけないのだ。そんな決意を感じます。ここにふつうの落ち葉ではなく、「松落葉」を持ってきたのは、どういった意図があったんでしょうか。静かな中に、強い怒りを感じた句でした。

千稔:松葉は落ち葉になっても一対のままなのに、1対のものを二つに切り落として埋めるとは、なんとむごい事をするものよ。と鑑賞しました。

とろうち:なるほど、二つで一対、ということで「松落葉」なんですね。納得。

敦風:二つ並んだその様子から耳塚と呼ばれているふたつの塚。まわりには松落葉が散り敷いている。古い由緒ある塚を思いを込めて見ている作者。少し俳諧味をまじえつつのそういうしみじみとした情景を思わせます。「耳塚」というのは、「敵を討ち取った証拠として切りとった耳を埋めた塚」という意味の言葉のようで、それより別の意味に使うということはないのかも知れませんが、私は、そういう意味にとりたくない気持ちなので、上のように鑑賞します。

けんいち:耳塚は大辞林によれば、討ち果たした敵の耳をそぎ落とし、証拠となし、それを弔ったもの。秀吉が始めた。略そのようにあります。おそらく従来の首級であれば、多数になれば扱いに困った為とも想像します。本来目鼻耳口のそろった首でとむらってもらうべきのが、二つの耳それも首級からはなされて簡略に弔らわれている。あわれである。周囲に落ちている松落葉は木からはなれても、ちゃんと二本結ばれているのに。以上のように鑑賞いたしました。

みのる:ちょっと難しい句ですね。申し訳ありません。耳塚と言えば、京都東山にある豊臣秀吉ゆかりのものが有名です。

http://www2u.biglobe.ne.jp/~k-ban/gorin-mimiduka.htm

でも、ここには大きな五輪搭があるだけのようなので、写真の情景からは、「ふたつあるゆゑ」も「松落葉」も無関係のようです。違う場所の耳塚かもしれませんね。松落葉の二葉と耳との関連も連想しますが、そこまでの意図はないとみます。松の成長には年月がかかりますから、過ぎ去った年月、歴史というものを感じさせます。つまり揚句での「松落葉」の持つ季語としての雰囲気は、哀れさ、輪廻、年月、歴史といったものを演出してくれます。心象を直情的に詠まず、季語のもつ雰囲気を借りて託すのです。これが、青畝師の教えられた客観写生の真理です。

27 文字摺の階を下りゆく雫かな

( もぢずりのかいをおりゆくしづくかな )

秀昭:文字摺りの花びらの螺旋階段をゆっくりと下り行く雫。ピンクと白の花びらの雫が地に落ちるまで目線が嬉々として追ったのであろうか。小さな草花なのでひざまずいて、かがんで見届けたのであろう。動きのある小さな美を発見した喜びに溢れている。

如風:まだ雨が降っているのであろう。激しかった雨も、今は小雨。外に出てみると、文字摺に雫が。「あ〜、やっと小降りになたな〜」との感慨の句。余談:「文字摺」には次の意もある。文字摺とは、岩の表面の凹凸に絹を当てて、忍草(しのぶぐさ)をこすりつけて染色する技法で、それに使われた石のことを文字摺石と云う。

よし女:小さな花に対しての愛情にあふれていますよね。中七の「階を下り行く」に観察の細やかさが覗えます。六、七月頃に咲くこの花に「雫」が季節感をよく現していると思いました。朝露の雫でしょうか。

敦風:いい句ですね。文字摺(捩花)のらせんに咲いている花を伝って雫が落ちて行く。その様子を捉えた。観察の力と表現の力が相俟って出来た格調高く美しい句だと思います。

千稔:ラン科の植物で乾燥にも弱いので、朝露の雫でさえも螺旋階段を下りるように、水分を根元に集める進化の仕組みに感動している。と鑑賞しました。

みのる:全く補足説明の必要のない句ですね。ぼくも大好きな一句です。下りゆく雫は、朝露か夕のうちに降った雨の名残でしょう。現在雨が降っていることも考えられますが、たしかにあまり強い雨だと風情がありませんね。

28 春蝉やかかるところに高木あり

( はるぜみやかかるところにたかぎあり )

秀昭:春蝉のまたの名を松蝉ともいう。主に松の木にいるからだ。春蝉の名だが季語が夏とは面白い。小さな蝉なので「ギィーギィー」という鳴き声で気づいたのであろうか。高木とは松の木か、単なる高い木か。後者のほうであろうか。

よし女:松林に多いので松蝉といい、早く出るので春蝉とも言われる蝉は、四月末から出て五、六月にかけて鳴く、と季語集にあり、前には春の季語かと思っていました。声はだみ声で、ジーワ、ジーとかギーギーとか上手く言えませんが、変な声です。今年森林公園を吟行した折、たくさん鳴いていて結構耳障りなのに吃驚しました。小川の瀬音をかき消すほどでした。掲句は、かかるところ(こんな、こういう所)に高い木があるなあ。との感慨でしょうか。崖っぷちか傾斜の激しい場所でしょうか、春蝉がしっかり鳴いている景が想像できます。

けんいち:かかるところに高木あり、とに注目します。こんなところに高い木(松でしょう)があった、と驚かれたのではないでしょうか。木の余り無い、または低木しか生えていない野原を散策されていた、と突然春蝉の鳴く声が、その方向をみると予想に反した松の木が高々とあった。 よく絵画とか写真にある、野原に一本高々とある樹木、を想像しました。

とろうち:散策の途中で春蝉の声を聞いた。どこで鳴いているのだろうと、探し回ったところ、こんなところに大きな木があって、そこから声がしていた。やあ、気がつかなかったなあ。と鑑賞いたしました。似たような経験はよくあるんですけど、こんなふうにさらりと詠みたいですね。

千稔:春蝉が鳴いて、思いもよらぬ所に高木があることを教えてくれて、ありがとう。と鑑賞しました。

みのる:春蝉を初夏の季語と覚えて頂けただけでこの句を掲出した意味がありました。だれでも、一度は経験したことのある情景だけに、「やられた!」という句ですね。みなさんが、的確に鑑賞してくださるようになってうれしいです。鑑賞を継続することで、自分では気づかない間に、感覚や感性が培われていくんですよ。がんばりましょうね

29 片裂けて玉ほつれゐる芭蕉かな

( かたさけてたまほつれゐるばせうかな )

秀昭:円状か、扇状の大葉が裂けて垂れ、筒状の花が開かんとしているさまの芭蕉。芭蕉の花は夏の季語。あるがままを素直に詠んだもの。芭蕉の文字を見ると、つい、江戸の俳聖松尾芭蕉が浮かぶ。江戸滞在時に深川に住まい。門人が贈ったバショウが庭に植えられていたことから芭蕉庵。その名をとって芭蕉。

けんいち:植物としての芭蕉を詠みながら、ある時期の悩める松尾芭蕉の姿と、だぶらせている、と鑑賞するのは、読みすぎでしょうか。

千稔:芭蕉の葉が開けていくうちに、片側がビラビラに裂けて、更にその裂けている葉や繊維が、残りの筒状に巻いている葉に絡まって開けないでいるのを見て、もどかしく思い、手を貸してやりたい気持ちだ。と鑑賞しました。

よし女:初夏の項、芭蕉の新葉は固く巻いたまま出ます。その巻き葉がほぐれ、葉を伸ばす頃はとても美しいです。その新葉が風か何かで裂けてほつれている。やわらかい葉の傷みに目が止り、心を動かされたのだと思います。

みのる:歳時記によると、

芭蕉の長大な青葉は、大きいくせにどことなく弱々しく、
幽寂な植物でその葉は破れやすい。

確かに芭蕉翁の人となりに通じる雰囲気がありますね。揚句はその特徴を上手に捉え、哀れさを感じさせます

30 丈長けし筍枴にもならず

( たけたけしたけのこあふごにもならず )

おうご【朸・枴】アフゴ (オウコとも) 物を荷(ニナ)う棒。てんびんぼう。
和歌で「会ふ期」にかける。
古今雑体「人恋ふる事を重荷と荷(ニナ)ひもて—なきこそわびしかりけれ」

いなみの:筍の成長の早さにはいつも驚かされます。其の驚きから筍の成長に軽い俳諧味をうたっておられますが、かすかに筍へのいたわりを見るのは考えすぎでしょうか

千稔:「帯には長し襷には短し」を連想します。掘り取ってもらえず、伸びきってしまった筍は、何の役にも立たず(枴にもならず )、間引きのために、ただ切り払われてしまい、かわいそうだな。と鑑賞しました。

秀昭:中途半端なものは何の役にも立たない。どんなことでも俳句にしてしまう根性は素晴らしいです。

遅足:これは恋の句とよむべきなのでしょうか? 古今集の歌を踏まえてた句なのでしょうか?

よし女:筍が竹にもなりきれず、食べるには遅すぎた状態のころでしょうか。枴にするにはまだ若くこころもとないなあ、という心の動きが一句を成したのだと思います。名前は忘れましたが、枴にする木は弾力のある、特殊な木があるようです。現実には、竹を枴にしたのでは、真っ直ぐで硬く、すべるので肩が傷むことでしょうが。

如風:小さい内なら食べられたのになぁ。成竹すれば兎も角、中途半端で箸にも棒にもかからないと。筍に罪はない、滑稽な句である。

しゃぼん玉:何の使い道もないものだと、伸びきったまだ皮のついた筍に、野暮ったさとうとましさを感じさせるようでもあり、また人にたとえて中途半端では何にもならない、恋愛の対象にすらならないと詠んだ句なのかも知れないと思いました。

みのる:何かを揶揄することを意図した句ではないですが、取り残されてのびてしまった筍をみて詠まれた句ですね。みなさんの解釈で良いと思います。でも、「枴」などということばが、よく出てくるものだと感心します。青畝俳句合評研究は、語彙を豊かにしてくれますね。

31 隣なき隔離の病舎桐の花

( となりなきかくりのびゃうしゃきりのはな )

よし女:法廷伝染病の患者を隔離収容して治療する場所が浮かびました。戦前の我が里でも松林の中にぽつんと一棟だけあり、避病院と言って何となく恐れられていたような記憶があります。大方は、人里離れた場所にあるので隣りがなく一本だけの桐の木が今満開と言うイメージになります。桐の花は大ぶりの枝に高く咲き、印象的な初夏の花で私は大好きですが、何かはかない印象の花ですよね。豊臣の家紋だったせいか、木の下に花がたくさん落ちているからか・・・桐の花が隔離の病舎を象徴しているようです。

千稔:「隔離の病舎」は、ハンセン病療養所の事だと思います。桐の花をどのように結びつけて鑑賞したら良いのか非常に難しい句ですね。隣家も全く見当たらない隔絶された病舎の患者にとって、世間からも切り離され失望の毎日だと思うが、唯一、桐の花だけは毎年花を咲かせて心を癒してくれるのであろうか。桐のように切られても強い生命力で生きて欲しいものだ。と鑑賞します。

とろうち:病気の時は、ただでさえ心細く不安なのに、ここは誰もいない隔離病棟。窓の外に見える桐の花は、すらりと高くすこやかな生命力を表しているようにも感じられる。と、鑑賞しました。隔離病棟という響きはいやですね。

如風:ハンセン氏病であろう。「隣なき」に、人の忌み嫌う凄まじさが感じられ哀れでる。師は、中の人達に思いを寄せ、桐の花は天を目指しこんなに元気なのになぁと。とは云え花の色はどこか寂しげ「桐の花」が不即不離ピッタリである。

秀昭:隔離病舎とはハンセン病療養所であろう。世間とは、ほとんどお付き合いのない療養所では一日中、淡々とした生活が続く。そんな生活者を淡紫色の大きな桐の花がいやしているのであろうと思いを馳せた。俳人らしい優しい心遣いである。ハンセン病と俳句に関連して、かつて群馬県草津町にあるハンセン病療養所を尋ねました。人物紹介のため昭和49年度第14回俳人協会賞に輝いた村越化石さんを取材に。受賞対象の「山国抄」には所内をテーマに感じたままの素直な俳句が綴られていました。しかし、小生にとっては強烈な印象で、愕然とし、感涙にむせんでしまいました。奥様とご一緒の生活でもの静かな方でした。ハンセン病は1943年に米国で開発されたプロミン注射などによって完治。所内の方々は明るく生活しています。

光晴:このところ、難しい句が多くて参加できませんでした。この句も俳句になりにくい情景を捉えていながら、溢れんばかりの詩情を感じました。一人の人生の長編小説を読むような気分にさせる句だと思います。

しゃぼん玉:深い悲しみと桐の花。初めは桐の花がある事で悲しみが増して来るように感じてましたが、桐の花の咲く姿を思い浮かべ想像していった時、とても高い木で天を仰ぐように咲いている桐の花に、何か救いを象徴してるように感じてきます。

みのる:孤独な雰囲気で、ぽつんと一本だけ抽ん出た、桐の高木が目に浮かびます。隔離病舎で闘病する人たちにとって、日々、孤独感、焦燥感というような思いとの戦いもあるのではと想像します。しゃぼん玉解にあるように、人の深い悲しみと、孤独な雰囲気の桐の花とには共通点があるように思います。光晴解にあるように、俳句そのものにストーリーを描くことはできませんが、鑑賞するひとりひとりの連想の広がりによって一編の小説になることもあります。この俳句の奥の深さがたまらない魅力なのです。

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