みのる:同じ梅雨の季語でも「男梅雨」「女梅雨」と言われるとより具体的に連想できます。立錐の余地なく池面を埋め尽くした蓮の広葉を激しい梅雨の太雨がひもすがら太鼓打ちしているのです。

えいいち:この句を読んで私が強く感じたのは雨の音です。分厚い蓮の葉を降り続く男梅雨の雨があたかも叩き棒で畳を叩くようなパンパンパンという大きな音です。作者は、いつまで降るのだろうか・・と思いながら雨の蓮田を眺めているような気がしました。

康子:「男梅雨」「蓮の葉畳」の表現方法に感服します。それにより雨の強さや蓮池の広さが想像できます。打ち止まずの措辞により雨の音を感じ、一面の蓮池を叩くかのように大雨が降り注いでいる情景が浮かび迫力を感じます。浄土のような蓮池と力強い雨の対比が面白く、二つの季語が同季、そして句の焦点が二分しない、それにより相乗効果で梅雨の季節感が伝わりました。

かえる:男梅雨とあるので、相当強い降りと思われます。蓮の葉が一面に広がる水面を雨が強く打ち付ける様が打楽器を打つ撥のように見えたのか。降り止まず、ではなく打ち止まず。ここに雨の荒々しさと勢いが強く感じられます。

澄子:蓮の葉畳ですから一面蓮の葉に覆われたそれなりに面積のある池を想像しました。辺りは白く霞み 垂直に降る太い雨は蓮の葉を打ち据え その音は打楽器の連打音のようにも感じられたのではないでしょうか。迫力のある様が伝わってきます。自然がみせる猛々しさに放心しているようにも感じました。なにひとつ無駄のないシンプルな詠みぶりに感動しました。 

むべ:男梅雨とありますので、かなり雨量が多そうです。蓮池とそこに降る大雨の絵が浮かびます。そして、ザーザーという雨音とともに、蓮の葉を打つバサバサという音も想像できます。男梅雨と蓮の葉という季重なりですが、それがうるさく感じられません。平明に詠むことの大切さを感じました。