わたしの信仰観

やまだみのる

このページは教会学校・中高生の子供たちに証しした拙稿です。

わたしとキリスト教との付き合い

いきなりこんな話をして驚いかないで下さい。 アダム・イブの時代ならともかく、 現代の私たちは着物とか洋服を着ないで日常生活をすることはありませんね。 洋服や着物の目的はみな同じですが、種類はいろいろあります。

自分の体型に合わない肩の凝る洋服をずっと我慢して来ている人はいるでしょうか。 普通はその洋服に合うように自分の体型を変える(難しいけど..)か、体型にあう洋服を作るとか・・・ようするに自分に合うようにアレンジするとかですね。 私たちの毎日の生活とキリスト教との付き合いはこの理屈にとてもよく似ていると、ぼくは思うのです。

ぼくが受洗したのは1984年のクリスマスで41歳の時です。

仕事は関西の某鉄道会社で技術系の業務を担当していました。 41歳と言えばサラリーマンとして、俗に言う一番油の乗り切った時期で、バリバリ仕事をこなしている毎日でしたが、あるとき職場の人間関係でつまづいて深い悩みに陥りました。 しかし、そのことを通してキリスト教と出会うことが出来たのですから不思議ですね。

受洗と挫折

ぼくが初めてキリスト教の集会に出席したのは、神戸にある関西聖書神学校での聖会でした。 家内が礼拝から帰る度に牧師先生のお話がよかったと誉めるので、

”どんな牧師なのか一度見てやろう”

と言う不謹慎な気持ちから、丁度その牧師先生がお話される集会があるというので、こっそり出かけて行きました。

先生のお話は、とてもユーモアで親しみのある内容でした。結局、それをきっかけに、ときどき教会の礼拝にも顔を出すようになったのです。 やがて数ヶ月して、家内はその年のクリスマスに洗礼を受けることになりました。 でも、ぼくは今一確信が得られなかったので、もう少し待つことにしたのです。ところが、

”どうせ将来受けるつもりなら、奥さんと一緒に受洗される方が記念になりますよ”

と牧師先生に薦められ、不思議なんですが何となくその気になってしまったのです。

理屈っぽいぼくの性格では考えられないことなんですが、この時は不覚?にもそれほど難しく考えずに洗礼を受けててしまったのです。 ぼくは短気で些事に拘りやすい自分のいやな性格をよく自覚していました。 洗礼を受けることで、そんな自分を何とか変えてみたいという願望が潜在的にあったと思います。

心機一転、今までの自分は死んで生まれ変わったんだと自分自身 に言いきかせて、清いクリスチャンになろうと務めました。 ところがそうしようと頑張れば頑張るほどかえって疲れるのです。軽薄に受洗したことを大いに後悔しました。 そして教会に行くことがだんだん苦痛に感じるようになっていったのです。

本質的に変わることのない自分を、いかにもクリスチャンらしく装うことも重荷になったしクリスチャンになったんだから、 職場や家庭でも温厚な良い人を演じなければならない。

”・・・しなければならない。”

いわゆるMUST型の生活をしようとして疲れてしまったのです。

MUST型からCAN型の信仰へ

結局、洗礼を受けたからと言って急に180度変われるわけはないので、ちょっと油断するとすぐに元の自分が現れてきて、すごく自己嫌悪に陥るのです。 クリスチャンでないときの方がどんなに気楽だったかとつくづく思いました。

自分の努力で変わろうとしたことが間違いであることに気づいたのは、それから随分時間が経ってからでした。

自分自身ではどうしようもないぼくだから神さまに助けて貰わなくてはやっていけないんだ、 というふうに考えるようになってからとても気持ちが楽になりました。

偽善的にふるまうことはかえって疲れます。 要するにクリスチャンなんだから、こうあらねばならないというMUST型の信仰ではなく、

”自分の努力では何も出来ないけれど、神さまが助けて下さるからどんな事でもすることができる。”

というCAN型の信仰に変えられてゆきました。これは楽ですよ・・・。 MUST型の信仰が間違いだと言っているのでは決してありません。 出来る人はいいのです。ぼくには出来なかった。ぼくに合う洋服ではなかったということです。

会社でも教会でもまた家庭でもそうですが、ぼくは意識的にクリスチャンらしく振る舞うことはしてません。 こうゆう言い方は不謹慎ですが出来ないからです。 意識して無理にそうしようとすると疲れるからです。

親しい友達と一緒に酒屋にも行きます。もっともぼく自身は全く呑めないのですが・・・ 日曜日にどうしてもしなければいけない仕事があったり、特別な行事がある場合は礼拝の方が大切だからと言うような理由で断ったりはしません。 社会生活の中で協力したり交わったりすることも、礼拝を守ることと同じように大切だと考えるからです。

”わたしはクリスチャンだからあなたがたとは違うんだ!”

という排他的な考え方は、あまりにも傲慢だとぼくは思います。

駄目クリスチャンの歩み

本質を知らない世間の人たちの中には、クリスチャンというのはとても聖い人達で、 お酒を呑んだり、礼拝をさぼったりは決してしない立派な人だと誤解をしている人がいます。 別にお酒を呑まないことや礼拝をさぼらないことが立派な行為だとも思いませんが、中にはクリスチャンの人ですら真剣にそう考えている人もいるようです。 でもぼくは違うと思います。

あくまでこれはぼくの考え方なので、誤解しないで欲しいし、それは間違っているという意見の人もいるかも知れません。 でも本当の人格というのはクリスチャンであってもなくても、自然のたち振る舞いの中でにじみ出てくるもので、意図的に感じさせる人格は偽物だと思うのです。

自分の努力でらしく振る舞うことは、安物のメッキと同じで、すぐにはがれてしまいます。 別に自慢できることではないですが、

”自分ではどうしようもないから神さまを信じとるんや”

と説明すると、

”ほんなら、おれでもクリスチャンになれるんか?”

というような会話になって結構気楽に伝道できています。 こんな調子で自分では少しも進歩していないと思うんですが、 なまくらな信仰生活であっても続けることによって神さまが変えて下さるんだと言う確信を持っています。

”あなたは神さまがおられるということを、ほんとうに心から信じてるの?”

という質問をされたらみなさんならどう答えます?

ぼくがクリスチャンだと判った友達は必ず同じ質問をします。 もちろんそう信じているわけですが、そういっても理解して貰うのは難しいですね。 本当に神さまがおられることが証明できたら誰でも神さまを信じるでしょう。 ところが、絶対神さまがおられないと言うことも証明することは出来ません。 結局はどちらも証明できないのです。

私たちの進むべき道

神さまがおられないとすればどんな生き方になるでしょうか。 困難や苦しいときも誰も助けてくれないので、自分ひとりで頑張って耐えたり乗り越えて行かなければいけません。 どんなに大きな試練に出会っても、自分の頑張りで乗り越えられる強い人には神さまは必要ありません。 でもぼくにはそんな自信はありません。

では神の存在を信じる人はどうでしょう。

いくら神さまを信じていても困難や苦しみはやってきます。当然ですよね。 でも必ず神さまが助けて下さる。苦しいときも共にいて励まして下さると信じることが出来たらどうでしょう。 苦しいという現実は何も変わらいけれど希望と勇気を持って困難に立ち向かうことが出来ます。さて、どちらの生き方が楽でしょうか?

私たちの進むべき道は神の存在を認めた生き方をするか、 神の存在を否定した生き方を選ぶかの二つに一つなんです。

ぼくは神さまがおられる方に賭けてみようという考え方なんです。

要するにぼくは自分が楽だと思う方を選択したに過ぎません。

こんなたとえ話をすると敬虔なクリスチャンの人から目を三角にして叱られるかも知れませんが、でもどうか誤解しないで考えて欲しいのです。 おられるかどうか保証のない神の存在を信じて、自分の生き方を決めるのは大きな賭けだと誰でも思います。 でもね神の存在を否定して生きることも、同じ確率(1/2)の賭けだということに気づいていない人が案外多いのです。

みなさんは世界史を勉強していると思います。 神を信じて生きた人の生涯はどうだったでしょうか。 また、そうでなかった人々の挫折の事実も歴史に記されています。

見えないものに目を向けよう!

”わたしは神さまが居られると言うことも、また居られないということもどちらも認めない”

と理屈を言う人もあるいはいるかも知れませんね。ではそういう人はいったい何を信じて生きていくのでしょうか? いいかえれば、せっかく与えられた自分の人生について、 まじめに考えたことがない人だと言えるのではないでしょうか。

ぼくが昔読んだ、「神を見出した科学者たち」という本に、こんなことが書いてありました。 当然ですが、科学者にはとても論理的な人達が多いです。 彼らは全ての現象を論理的に解明するために一生懸命研究しているのですが、 論理的に証明できることしか信じられないので無神論者が多いのです。なぜなら神の存在を証明することは出来ないからです。

ところが研究を進めるほどに、人間の知識や経験ではどうしても証明出来ない壁にぶつかります。 確率、方程式、遺伝、進化といった論理で説明することは不可能な現象にぶつかって行き詰まるのです。 そしてやがてはノイローゼになったり、ひどい人は気が狂ってしまったりします。 歴史のなかにもそんな人の生涯が証明されていますね。

しかし、賢明な科学者はこれらの苦悩を通して神の存在を肯定するようになります。 論理的にはあり得ないことでも神の技であると仮定すれば必ず納得できるからです。 長々と話しましたが、ぼくがみなさんに言いたいことは、

見えるものではなく、見えないものを信じる勇気を持って欲しい。

と言うことです。 そしてそれは決して難しいことでもなく、頑張る必要もなく、むしろ最も楽な選択だということです。 そしてその証明はぼく自身です。 別に威張れることではないんですが決して清くも正しくもなく弱い弱いクリスチャンです。 それでもぼくは神さまの哀れみによって守られ溢れる恵みに浴しているのです。 (おわり)

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